【国家総動員法】人々の暮らしはどうなってしまったのか【近衛文麿】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【国家総動員法】人々の暮らしはどうなってしまったのか【近衛文麿】」というお話です。
東京の皇居のすぐそばに帝国議事堂(現・国会議事堂)が完成しました。鉄筋コンクリートの建物ですが、意外にも日本産の資材のみで造られており、17年の歳月を要して建設されました。その外観は近代国家にふさわしいものでした。
しかし、この中では軍部が主導権を握り、戦争遂行のために国民を苦しめる様々な法律が作られていくのでした・・・・。
ということで、今回はそんな国民を苦しめた戦前昭和の‘悪法‘として名高い国家総動員法についてご紹介いたします。そのうえで、人々の暮らしは変わってしまったのかについても書いていきたいと思います。
国家総動員法の可決によって、戦争遂行のために人と物資を統制する法律が議会の十分な審議をせず、次々に成立させることが可能となりました。国民の負担は大きくなり、切符制や配給制が導入されるも、人々の暮らしは圧迫されていきました。戦況の悪化とともにネズミやモグラ、そしてヘビまでも食糧とするようになっていきました・・・・。
第一次世界大戦において、ヨーロッパの国々は戦場での戦いばかりでなく、後方の国民達も戦時体制を支える戦争となりました。つまり、4年半に及んだ第一次世界大戦は国力すべてを注ぎ込む国家総力戦だったのです。
大正時代末期にヨーロッパを訪れた軍人たちの中には、永田鉄山や東条英機らを中心に日本も同じ体制を構築するべきであると考えた者が少なくありませんでした。
彼らは1934(昭和9)年に国防の本義と其の強化の提唱(別名:陸軍パンフレット)を発表しました。
それによると、総力戦をするにあたって、従来の資本主義体制を見直し、統制経済へと移行する必要があると提唱されていました。
統制経済と聞いて、気づいた人もいるかもしれません。
陸軍は当時、統制経済の先進だったソビエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)の仕組みを見本としており、国家による生産計画や配給制や切符制の実施によって人々に物資が平等に行き渡るようにしていました。
後述しますが、この配給制と切符制が今回の大きなキーワードとなります。
1937(昭和12)年6月、近衛文麿内閣が成立して1か月後、日中戦争が勃発しました。
「国民政府を対手(あいて)とせず」という第一次近衛声明に基づき、戦線が泥沼化していく中、国家総動員法の法律は着々と作られていきました。
この法律は戦争に伴い、労働・物資・資本の統制、価格の管理、言論出版の規制などが盛り込まれており、陸軍の軍人と企画院の官僚が手を組んで作成されました。
資本主義は事実上廃止され、統制経済が徐々にはじまっていくのです。
資本主義とは資本家にとって都合の良い経済システムなのですが、それを見直すというこの法律は、三菱や三井などの大手財閥やそれと手を組む政党から猛烈な反対意見が出ました。
しかし、陸軍と近衛首相は、そうした反対派を押し切る形で1938(昭和13)年3月、衆議院に法案を提出、審議にかけました。
審議の質疑応答では、陸軍を代表して佐藤賢了(さとうけんりょう)中佐が対応しました。佐藤中佐は法案について延々と演説をし、議員の間からひんしゅくの声があがりました。
業を煮やした宮脇長吉(みやわきちょうきち)議員は怒りを爆発させ、「もういい。黙れ!」と怒号が響き渡りました。
そんなアクシデントがありながら、国家総動員法は同1938(昭和13)年3月16日にあっさり可決されました。
国家総動員法が可決されたことで、戦争遂行のために人と物資を統制する法律は、議会の十分な審議をせず、国民に負担を強いる法律や条例を次々に成立させることが可能となりました。
地獄の始まりです。
まず、制限されたのは、燃料などの動力源です。
国家総動員法と同時に制定された電力国家管理法では、電力が統制下に置かれるようになり、民間の電力会社は単一の国策会社に一挙に統合されました。
これによって稼働時間を制限された工場を持つ民間企業は大打撃を受け、中小企業などは強制的整理も進められました。
また、電気の他に石炭の使用も制限されました。そのため、機関車や電車は運行本数を減らされ、人々は行列を作って待たされ、駅は激しい混雑となりました。
ガソリンの消費を抑えるため、ガソリン車に替わって木炭車が現れました。木炭車は木炭を燃やすことで、一酸化炭素ガスを発生させてエンジンを動かす仕組みです。
当時、ガソリン車はあまり普及しておらず、バスを中心に出回るようになりましたが、ガソリン車に比べて燃費が悪く、なおかつ故障しやすいものでした。
次に、物資や食糧ですが、これまで一般に流通していた衣類や食糧は軍需品として回されるようになります。
また、民間企業の工場の生産計画はすべて企画院によって作成され、軍需品を優先的に、民需品の生産は後回しにされていきました。
このため、国民は衣類や食料を十分に買うことが出来なくなり、深刻なインフレを引き起こしました。
これに対して政府は、翌1939(昭和14)年10月に価格等統制令を出して公定価格制を導入しました。
「ぜいたくは敵だ。」
「欲しがりません、勝つまでは」
こうしたスローガンは街中に貼られるようになり、人々は消費を切り詰めることを強要されました。
人々の楽しみである娯楽にも、国の厳しい規制が及びました。それまでも内務省により、国が出版物や映画についてチェックをし、不都合なものを排除する検閲を行っていましたが、戦争下において、それは一層厳しいものとなりました。
また、男性の長髪や女性のパーマネントを禁止するなど、慎ましい生活態度も要求されました。
翌1939(昭和14)年早々、国家総動員法に基づいて国民徴用令が制定されました。これは青年男子の徴兵による労働力不足を解消するもので、一般国民は軍需産業への就労を強制されました。
また、同年9月にはヨーロッパでドイツがポーランドに侵攻したことをきっかけに第二次世界大戦が勃発。それを機に原材料などの輸入品が減少しました。
翌1940(昭和15)年、ぜいたく品の製造・販売の禁止(七・七禁令)が敷かれ、生活必需品に対しては切符制が導入されました。
切符制とは、例えば国から支給された1000ポイント分の切符を使って、砂糖10ポイント、味噌15ポイント、マッチ20ポイントなどの生活必需品を購入していくことです。最初はタバコなどの嗜好品から。続いて砂糖や味噌などの調味料、そして木炭やマッチなどの燃料、そして衣類までが切符制となりました。
しかし、そんな切符制ではある問題が生じます。
それは、国民たちが米をはじめとした食糧の購入に偏ってしまうこと。つまり1000ポイント全てを米の購入につぎ込んでしまうことです。
そうなると、大混乱になってしまいます。
そこで導入されたのが、配給制です。
これは全ての国民に平等に与えられるもので、米をはじめとした「命の食糧」は配給制となりました。
米の配給は1941(昭和16)年4月に始まりました。
当初、一般青年(11歳~60歳)は1人当たり1日2合3勺(約330グラム)が割り当てられましたが、戦況の悪化に伴い、2合1勺(約300グラム)まで減られました。
人々の暮らしはどんどん圧迫されていきました。
そして同1941(昭和16)年末、日本とアメリカによる太平洋戦争が勃発しました。
戦況の悪化に伴い、米が不足し、配給も減らされ、代わりにイモ類や大豆などが配給されるようになりました。
戦争末期になると、人々は深刻な食糧問題に苦しめられました。
当時の朝日新聞には「かうして食べれば・・・」という見出しの記事に栄養源ごとに食用可能な材料とその加工法が紹介されていたようです。
たんぱく質の中には、ネズミ、もぐら肉、ヘビ肉などが挙げられ、肝心の加工法については「消毒して食用とする」とだけ書かれていました。
バッタやカマキリを串刺しにして焼いて食べたり、淀川などの河川敷の雑草を根こそぎ食べるなどその状況は深刻なものとなっていきました。
終戦直前の1945(昭和20)年7月7日(七夕)の笹のつるしには、カルピス飲みたい、あんぱん、エビフライ、ショートケーキなどが書かれていました。
以上。
本宮貴大でした。
参考文献
朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争 朝日新聞社「写真が語る戦争」取材班 朝日新聞出版
風刺漫画で日本近代史がわかる本 湯本豪一=著 草思社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著 アルファポリス