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【第二次世界大戦】勝敗を分けたキーマンは‘あの国‘だった!?

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【第二次世界大戦】勝敗を分けたキーマンは‘あの国‘だった!?」というお話です。

 今回は結論を最初に言います。

 第二次世界大戦の経過を見ていくと、その勝敗のカギを握っていたのはソ連であることがわかります。

 第二次世界大戦の対立構図は、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国VS.イギリス・フランス・アメリカ・ソ連を中心とする連合国の対立として知られています。

 しかし、ソ連は最初から連合国側に参加していたわけではありません。

 むしろ、当初は枢軸国側の立場だったといっても過言ではありません。 

 日本・ドイツ・イタリアの3国に共通するのは、国際連盟を脱退していることですが、ソ連フィンランドとの冬戦争によって国際連盟を除名されています。

アメリカは犬猿の仲であるイギリスと散々揉めた結果、国際連盟には加入しませんでした。)

 さらに、ソ連はドイツとは独ソ不可侵条約を結び、日本と日ソ中立条約を結んでいます。

  つまり、ソ連がどちらの陣営につくかで第二次世界大戦の勝敗が分かれたといえるのです。

 今回はそれについてお話したいと思います。

 

 1936(昭和11)年、日本はドイツと日独防共協定を結んでいました。これはソ連共産主義の拡大を防止するためのもので日独が協力しようという協定でした。

 しかし、協定締結からわずか2年後の1938(昭和13)年、ドイツはソ連独ソ不可侵条約を結んでしまいました。これは、ポーランド侵攻を考えるドイツが、その前にソ連と友好的な関係をつくっておいた方がより有利に進めることが出来ると考えたためです。

 つまり、ドイツはソ連ポーランドを分割統治することを取り決めたのでした。

 

 このようなドイツの裏切り行為に対し、日本は大いに失望させられ、時の首相・平沼騏一郎も激しいショックを受け、「欧州情勢は複雑怪奇なり」という名言を残し、総辞職する騒ぎとなりました。


 こうして1939(昭和14)年9月ヒトラー率いるナチスドイツがポーランドに侵攻。

 その2週間後、ソ連ポーランドに侵攻しました。

 ポーランドはドイツとソ連に東西から挟み撃ちにされるように侵攻されてしまったのです。


 それを見たイギリスとフランスは、ポーランドを守るために‘ドイツ‘に宣戦布告しました。

 そう、英仏は‘ドイツにだけ‘宣戦布告したのです。

 繰り返しますが、ポーランドに侵攻したのは、ドイツだけではありません。ソ連も攻め込んでいます。

 しかし、イギリスとフランスが戦線布告したのは、あくまでドイツ1国だけでした。

 このときのイギリス・フランスは非常に高度な政治的判断をしたと言えます。

 

 かつてソ連と戦争をした国は滅んでいます。

 19世紀初頭、フランス第一帝政の皇帝に即位したナポレオンは「私の辞書に不可能の文字はない」と言うくらいヨーロッパ戦線ではほぼ全勝でした。

 そんなナポレオンが失脚するきっかけとなったのは、ロシアへ侵攻したことでした。この侵攻で大敗北を喫したナポレオンはあっという間に没落していきました。
連合国陣営の、特にフランスはそういった歴史を学んでいたのでしょう。

 

 しかし、ドイツの勢いはすさまじく、1940(昭和15)年6月、フランスは降伏し、イギリスも降伏寸前まで追い込まれました。

 ヨーロッパ戦線はほぼドイツの圧勝に終わるかに思われました。

 

 その頃、太平洋方面では日本とアメリカの対立も不可避なものになっていました。
日本は1937(昭和12)年に勃発した盧溝橋事件をきっかけに中国と全面戦争をはじめていました。(日中戦争

 日本がこれ以上、中国の占領行為を続けることに危惧したアメリカは日本に対する鉄鋼や石油の輸出を制限し、さらにイギリスと手を組み中国に物的支援を行いました。
日本はそんな物資の供給ルートを遮断するためにフランス領インドシナに進軍しました。

 しかし、日本とアメリカはその関係を悪化させつつも、互いに開戦を避けるべく交渉を重ねていました。(日米交渉)

 

 ところで、日本は独ソ不可侵条約の件から、ドイツと距離を置いていたが、快進撃を続けるドイツを見て、日本は再び、ドイツに接近するようになり、そこにイタリアを加えて日独伊三国同盟を結ぼうとしました。

 さらに日本の外務省にはある思惑がありました。

 それは三国同盟ソ連も加えた四国軍事同盟を締結することでした。

 ロシアの国力を革命によって引き継いだソ連には、強力な軍隊も豊富な資源もある。

 アメリカやイギリスに対抗するには、日独伊だけでは少し弱い。しかし。ソ連を味方につけることが出来れば、この大戦は枢軸国側の勝利で終えることが出来ると考えたのです。

 時の外務大臣松岡洋右は四国同盟の締結に奔走しました。

 ソ連はすでにドイツと独ソ不可侵条約を結んでいます。日本が望めばソ連もきっと不可侵条約を結んでくれるだろう。四国同盟は難しいものではなさそうだ。

 そう考えた松岡は1940年にドイツで日独伊三国同盟締結後、翌1941(昭和16)年3月、ソ連を訪問し、日ソ中立条約の締結に成功しました。

 これで日独伊ソによる四国同盟が達成されるかに思われました。

 しかし、事態は思わぬ方向に向かってしまいます。

 日ソ中立条約の締結からわずか3カ月後の1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破って、ソ連に侵攻してしまいました。これによって日本が構想していた四国軍事同盟はあっけなく頓挫してしまいました。

 

 ヒトラーソ連に侵攻した理由は3つあります。

 1つ目はスラブ人が住む東ヨーロッパ全土を制圧し、ドイツの植民地とすること。

 2つ目は中々降伏しないイギリスに対し、ソ連を攻略することで、希望を打ち砕き、イギリスから講和を引き出そうということ。

 そして3つ目ですが、ヒトラーは何よりも共産主義を毛嫌いしていました。そのため、一度は手を組んだスターリンとの関係も長続きしなかったのです。

 独ソ戦が始まったのを見たアメリカは急変しました。

 アメリカは日本に対してすっかり強気になり、翌7月に日米交渉の担当にあたっていたコーデル・ハル国務長官は、一方的な要求を突き付けてきました。

「日本は中国大陸から全面撤退すること」

「フランス領インドシナからも撤退すること」

「日独伊三国同盟を破棄すること」

 日本にとって、これらの要求は到底、受け入れることが出来ませんでした。

 こうした一方的ともいえるアメリカの要求に対して、時の首相・東条英機は、もはやアメリカとの交渉の余地はないと判断し、それまでの和平交渉派から一転、日米開戦を決断するにいたりました。

 ドイツがソ連に侵攻したことで、ソ連が枢軸国側に参加する可能性はなくなり、アメリカはこの大戦を連合国側の勝利で終わらせることが出来ることを確信したのです。

 このように第二次世界大戦のキーマンとなったのはソ連でした。ドイツがソ連に侵攻したことで、日本が描く四国軍事同盟は幻となってしまいました。

 結果的に日本はドイツに妄信したがために振り回され、‘悪の枢軸国‘の1国とされ、最終的に60ヵ国が参加する連合国軍を敵に回すことになってしまいました。

 ソ連と組めなかった枢軸国、ソ連と組むことが出来た連合国、第二次世界大戦はここに雌雄を決したのでした。

以上。

最期まで読んでいただき、ありがとうございました。

本宮貴大でした。

参考文献
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社