【どう違う?】大日本帝国憲法と日本国憲法
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【どう違う?】大日本帝国憲法と日本国憲法」というお話です。
大日本帝国憲法 | 日本国憲法 | |
発布 | 1889(明治22)年2月11日 | 1946(昭和21)年11月3日 |
施行 | 1890(明治23)年11月29日 | 1947(昭和22)年5月3日 |
形式 | 欽定憲法 | 民定憲法 |
主権 | 天皇 | 国民 |
天皇 | 神聖不可侵 | 国の象徴 |
内閣 | 天皇に対して責任を負う | 国会に対して責任を負う |
国会 | 天皇の協賛機関 | 国権の最高機関 |
選挙 | 制限選挙(男子のみ) | 普通選挙(男女) |
人権 | 法律で制限 | 基本的人権の尊重 |
軍隊 | 天皇に統帥・兵役義務 | 戦争放棄・平和主義 |
日本国憲法(新憲法)が1947(昭和22)5月3日に施行されてから、すでに70年以上が経過しました。新憲法施行の前日まで存続した大日本帝国憲法(明治憲法)は1890(明治23)年11月29日に施行されており、その期間は56年半で、日本国憲法がその長さを超えています。
しかし、大日本帝国憲法と日本国憲法ではその制定背景や過程が全く異なります。
大日本帝国憲法は、欧米諸国に負けないために明治政府が近代国家を樹立するために公布されたもので、その草案は伊藤博文らが諸外国の憲法調査を行い、主に皇帝の権限の強いプロイセン(ドイツ)の法律を範にしてまとめられました。
当時は自由民権運動が盛り上がりを見せており、フランス流の自由党、イギリス流の立憲改進党が結成されていました。
当時、民主主義の先進だったフランスやイギリスを範にした憲法を作成してしまうと、主導権を臣民に奪われると危惧した明治政府は、これに対抗するために皇帝の権限の強いプロイセン(ドイツ)に範にした憲法の作成に着手しました。
こうして1889(明治22)年2月11日、天皇が第2代首相・黒田清隆に手渡すカタチで発布されました。
ここにアジア初の近代憲法を持つ国として日本は船出したのでした。
大日本帝国憲法では、主権は天皇にあり、天皇が定めて臣民(国民)に与えるという欽定形式(欽定憲法)をとり、天皇は元首にして統治権の総攬(そうらん)者であり、神聖不可侵な存在と規定されていました。
「(第1条)大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、「(第3条)天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
また、天皇は元首にして、統治権の総攬者であると規定されています。天皇が統治権の総攬者ということは、立法、行政、司法において天皇がその権限を全て握っているということです。「(第4条)天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」
翌1890年には帝国議会が開設されました。大日本帝国憲法では、帝国議会(国会)は天皇の協賛機関です。したがって、天皇が法律や予算を成立させる際に、帝国議会は事前に同意を与えます。つまり、帝国議会とは天皇の法律案や予算案に賛成する機関なのです。
天皇は各大臣の任免権があり、内閣総理大臣も天皇から大命が下ります。内閣は天皇の輔弼(ほひつ)機関です。輔弼とは、天皇の機能行使に対し、助言を与え、その全責任を負うことを言います。
議会は衆議院と貴族院の二院制をとり、貴族院は華族や勅撰議員などで構成されました。一方で、衆議院議員については選挙によって選ばれることになり、国民の代表者を政府に送り、国政に参加させるという民主政治が行われていました。
しかしながら、選挙は制限選挙であり、有権者は発布当初、直接国税15円以上を納める25歳以上の男子のみに限られ、その後何度か改正されたものの、最終的には25歳以上のすべて男子のみに留まり、女性の参政権は認められませんでした。
そして、近代国家樹立にあたって重要になるのは「国防」です。建軍された帝国陸海軍は天皇に統帥しており、国民には兵役義務も課されました。
軍国主義で独裁的なイメージのある大日本帝国憲法ですが、実は非常に民主主義的で、国民には法律の範囲内としながらも、信教の自由や言論の自由などが認められており、民権派の多くがこの憲法に満足していました。
そんな欧米諸国に負けまいとして樹立された大日本帝国でしたが、昭和に入り、日中戦争や太平洋戦争によって欧米諸国に屈し、ポツダム宣言を受け入れざるを得ない状況に追い詰められました。
ポツダム宣言には日本が降伏する条件として「民主主義の推進」、「基本的人権の尊重」、「武装解除」などが掲載されていました。(日本は無条件降伏をしたことが通説になっていますが、そんなことはありません。)
これらを満たす上で、「天皇主権」、「人権は法律の範囲内で」、「陸海軍を天皇が統帥」などと定められている大日本帝国憲法では都合が悪いのではないかと、GHQ総司令部総司令官のダグラス・マッカーサーの方から提案がありました。
そこで敗戦からわずか2カ月後に首相になったばかりの幣原喜重郎は、こう言いました。
「現行の憲法(明治憲法)は変える必要はないと思うが、やはり不具合もあったと思うので、修正してみる」
そのうえで国務大臣の松本丞二を委員長とした憲法問題調査委員会を政府内に設置し、改正案の作成に当たらせました。
しかし、提出された改正案は旧憲法(大日本帝国憲法)とほとんど変わっておらず、これに呆れたマッカーサーは、 GHG自らが憲法改正案を起草すると決め、占領軍に属していたアメリカ軍将校や何年か弁護士を経験したことのある法律関係者を寄せあつめ、わずか1週間の間に起草された。
しかし、そんな憲法作成集団の中には憲法学者など一人もおらず、アメリカ本国やその植民地フィリピンの憲法案をカンニングして、その文案がごっそりそのまま入っていたりしました。
つまり、かなりいい加減な憲法案で、それを外務省の役人に翻訳させて、日本国憲法のアウトラインが完成しました。
これを見た日本政府もまた呆れました。幣原をはじめ幕僚たちは口々に批判しました。
「GHQは憲法のイロハも知らんのか。こんなのを新憲法として出せば、GHQは恥をかくぞ。」
さすがにこのGHQ草案をそのまま新憲法にするわけにもいかず、日本政府は議会審議の過程で追加・修正がされ、1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法が公布され、翌1947(昭和22)年5月3日から施行されました。
とにかくGHQは、「軍国主義の大日本帝国」を根本から変えるために、
まず、神格化された天皇の存在を否定したことです。しかし、神格化を否定し、単なる国の象徴であるとし、天皇主権も廃止し、国民主権としました。
「(第1条)天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
国会とは国権の最高機関であり、唯一の立法機関です。法治国家である日本において、立法権を有する国会は最も強い権限を持っています。
日本国憲法では主権は国民にあります。国会を司る国会議員(衆議院)はそんな国民の選挙によって選ばれた人達です。したがって、国会とは国権の最高機関であるとされているのです。
「(第41条)国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」、「(第43条)両議員は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」
なお、国民の選挙権も20歳以上にまで引き下げられ、全ての男女に与えられました。
人権に関する規定は「表現の自由」や「信教の自由」などが認められ、それらは法律によって制限されることはなく、その権利は国家さえも侵すことが出来ない永久の権利として規定されています。
「(第11条)国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民へ与へられる」
内閣は行政権を有する機関ですが、この行政権全般について、国会に対して連帯して責任があります。つまり、国会が作った法律をきちんと守り、執行し、行政的な役割を果たすのです。そうした中で、衆議院が連帯責任者である内閣に対し、不信任案を可決した場合、当然、内閣は辞めさせられます。
「(第65条)行政権は、内閣に属する」、「(第66条の3)内閣は、行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負う」
そして軍隊に関しては、「戦争放棄」、「戦力の不保持」、「平和主義」が唱えられました。「(第9条第1項)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
しかし、これには当時の幕僚は強く反対しました。平和主義と言えば聞こえは良いですが、ならば国防はどうするのでしょうか。そこで衆議院は修正段階において芦田均の発案により、第9条第2項に「前項の目的を達するため」との字句が加え、自衛のための軍隊保持に含みを残しました。
以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
「昭和」を変えた大事件 太平洋戦争研究会=著 世界文化社
斎藤孝の一気読み!日本近現代史 斎藤孝=著 東京堂出版
やりなおす戦後史 蔭山克秀=著 ダイヤモンド社
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社