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【どう違う?】昭和16年の日本とアメリカの国力差

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【どう違う?】昭和16年の日本とアメリカの国力差」というお話です。
 
太平洋戦争を振り返った時、おそらく多くの人が疑問に思うことがあると思います。それは、「そもそも日本はアメリカと戦えるほどの国力があったのか。」ということです。

 ご周知のとおり、日本は太平洋戦争においてアメリカに完封なきまでに大惨敗を喫しました。そんな歴史の結果を知っている現代の私たちからすれば、「そんな力は日本にはなかった。全く日本は無謀な戦争に挑んでしまったのだ。」ということになりますが、本当にそうなのでしょうか。
 
 ということで、今回は昭和16年当時の日本とアメリカの国力差を見ていきながら、なぜ日本は超大国アメリカとの戦争を続けてしまったのかを見ていきたいと思います。

軍備や兵力では日本はアメリカと同等以上の国力を持っていました。しかし、資源や工業生産力のような経済力では圧倒的な差がありました。長期戦では勝ち目のない日本は、短期決戦でアメリカに勝利しようとしていたのです。

1941(昭和16)年といえば、日本とアメリカが戦争を始めた年ですが、最初に以下の表を見てください。日本とアメリカの軍備や兵力の差を表したものです。
日米戦力比較(1941年 日米開戦時)

日本 アメリ
陸軍兵力(万人) 212 170.3
海軍兵力(万人) 32 28
戦艦(隻) 10 9
大型空母(隻) 6 5
重巡洋艦(隻) 10 18
軽巡洋艦(隻) 21 19
駆逐艦(隻) 108 148
潜水艦(隻) 64 112
航空機(機) 3,510 1,800
空母艦載機数(機) 573 618

 上の表を見る限り、日本はアメリカと同等か若しくは、それ以上の兵力を持っていたことがわかります。特に航空機の保有数は歴然とした差があります。単発の戦いや短期決戦において、日本はアメリカに決して劣ることはなかったのです。

 しかし、その差は、戦いが続くに連れてどんどん開いていくことになりました。
その原因は経済力の差です。経済力の高い国ほど長期戦に有利になっていきます。次の表は日米の経済力を比較したものです。

日本 アメリ
人口(万人) 7,160 13,340
国民総生産(億円) 449 5,312
石油生産量(万t) 28 18,949
石炭生産量(万t) 5,647 46,391
アルミ生産量(万t) 5 28
銑鉄生産量(万t) 391 6,077
電力量(億kw/h) 376 2,083
自動車生産台数(万台) 1.1 378
航空機生産台数(万台) 0.7 21

 まず、人口が2倍、国民総生産が12倍とケタ違いです。次の石油に関してはもはや話になりません。一目瞭然ですが、アメリカは日本の約680倍の石油生産力を持っています。石炭生産量は約9倍、アルミ生産量は約5倍、産業の要ともいえる銑鉄の生産量は約15倍もの差があります。
(銑鉄・・溶鉱炉を使い、鉄鉱石から取り出した鉄。堅くてもろい。鉄鋼の原料として使われる。)

 これ以上ないくらい明らかな国力差で、もはや話になりません。
 
 日本は明治維新以降、富国強兵や文明開化をスローガンに急速な西洋化を図り、世界5大国のひとつに数えられるまでになりました。

 しかし、アメリカもまた19世紀から20世紀にかけて急成長を遂げた若くて元気な国だったのです。19世紀、アメリカは農業国で経済力や軍事力はイギリスやフランスには遠く及びませんでした。

 しかし、19世紀末になってくると、アメリカは鉄鋼などの重化学工業が発達してきます。さらに、世界から多くの移民が入り、広大で豊かな天然資源を開発する労働力にも恵まれました。

 つまり、アメリカは20世紀初頭には、物量大国・工業大国・労働大国へと成長し、世界でも類をみない高い潜在能力を秘めていたのです。

 これほどまでに明らかな経済力の差を当時の日本人が誰も気づいていなかったわけがありません。

 超大国アメリカに勝てないことが分かっていた連合艦隊司令長官山本五十六は開戦当初から対米戦は長期戦ではなく、短期決戦で講和に持ち込むべきと強く主張していました。

「確かに我々は、真珠湾攻撃で太平洋艦隊を撃滅することに成功しました。しかし、ぐずぐずしていたら米国は態勢を立て直し、強大な国力で圧倒してきますぞ。日米の軍備に差のない今こそ、敵の先手をとらなければならないのは明白です。」
 
 これに対し陸軍参謀本部は反論しました。

「それよりも南方の資源地帯を確保し、持久戦に備えるのだ。」

 陸軍は南方を確実に抑えて、長期不敗の持久体制を築こうとしたのです。

 それでも山本は短期決戦を強く主張します。「真珠湾で撃ち漏らした敵空母を叩くべきだ。ミッドウェー島を攻略し、敵の空母をおびき出し、雌雄を決するのです。」

短期決戦か持久戦かこれが陸軍と海軍の亀裂を生む大きな要因となりました。

 しかし、山本が提案したミッドウェー作戦に対し、今度は身内であるはずの海軍軍令部が反論しました。
「長官、直接交戦よりも、オーストラリアの攻略を優先するべきです。米国が反転攻勢に出た場合、オーストラリアは最大の拠点になってしまいます。」

 これに対し、陸軍の参謀本部が猛反発します。
「そんなことをすれば、南方での兵力が足りなくなってしまうだろう。全く海軍はこちらの事情が分かっていない。」

 以上の会話を聞いているだけでも分かる通り、軍を指揮・命令するはずの軍上層部の方針や意見がバラバラだったのです。

 これに対し、当時の帝国議会(国会)や内閣は何も言えなかったのでしょうか。

 はい、言えませんでした。

 国会や内閣には軍を指揮・命令する統帥権がないのです。陸海軍はこの統帥権を振りかざし、国会や内閣の意見を抑え込んでしまったのです。
 当時の大日本帝国憲法下では、統帥権天皇が持っており、軍は天皇の直属機関でした。これは明治政府が軍の反乱事件(竹橋事件)が起きたことで考え出されたもので、軍が政治を運営する権限を持たせないために、政治と軍事を完全に切り離したのです。

 それが仇になってしまったのです。当時の閣議においては、軍の指示・命令は陸海軍の意向が大きく反映され、国会や内閣などの政治部門が口出しすることはできなかったのです。

 天皇の直属機関である陸海軍は、戦争の意思決定を天皇に求めます。それは天皇ご臨席の御前会議によって最終決定がなされます。しかし、実質的には閣議で決まり、天皇はその閣議決定を承認するだけで、それを拒否する権限もありませんでした。

 意外にも当時の大日本帝国は、世界でも指折りの民主主義国家でした。議会制度はしっかり整っており、国会も内閣も機能していました。しかし、彼らは統帥権を持っておらず、軍の作戦には全く口出し出来ずにいました。なぜ、明治時代中頃に作られた統帥権が今さらになってクローズアップされるようになったのでしょうか。次回はそのことについて解説していきたいと思います。

つづく。

今回も最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献
手に取るようにわかる太平洋戦争 瀧澤中=著 日本文芸社
大日本帝国の真実          武田知弘=著 彩図社