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【昭和維新1】統帥権干犯問題とは何か。

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【昭和維新1】統帥権干犯問題とは何か。」というお話です。

 

 昭和維新という言葉をご存じでしょうか。昭和維新は戦前昭和を理解する上で非常に大事なキーワードになります。ということで、今回はそんな昭和維新に触れていきながら、「統帥権干犯問題とは何か」について解説していきたいと思います。

昭和初期、政党政治は完全に腐敗し切っていました。そんな中、軍部が革新勢力として注目を浴びるようになります。政党政治から軍事政治へ。明治に発足した大日本帝国は軍部の台頭を許す結果となってしまいました。

 

 

 「維新」とは、元号が変わった時に、新たな政治運動が起きたり、新たな精神運動といった変革が起こり、新しく即位した天皇に忠君を誓うというものです。例えば明治維新徳川将軍家から薩摩・長州出身者による明治政府に政権が移り、天皇を中心とした中央集権国家へと政治体制が大転換しました。大正維新では薩摩・長州を中心とした藩閥政治を倒し、政党による議会政治を目指していこうとする動きが強まりました。

 そして昭和に入ると、日本の政党政治が崩壊し、軍事政治へと移行していくことになります。これが昭和維新です。

 ここで、昭和維新の出来ごとを大まかに触れておきたいと思います。

 反戦厭戦ブームが強かった大正時代が終わり、元号が昭和に変わると、昭和2年の田中義一内閣による中国出兵(山東出兵)に始まり、日本は急激に戦争モードに入っていきます。それと同時にテロも相次いで起こるようになりました。

1930(昭和5)年に浜口雄幸首相が右翼に狙撃され重傷を負い、1932(昭和7)年には井上潤之助前蔵相が、3月に経済界の大御所である団琢磨三井合名会社理事長がそれぞれ血盟団員によって殺害されます。

そして同年の5月には、海軍青年将校陸軍士官学校の生徒などが首相官邸などを襲撃し、犬養毅首相を射殺する五・一五事件が起こりました。そして1936(昭和11)年2月にはニ・ニ六事件が起こり、皇道派の陸軍将校が1400人余の兵士を率いてクーデターを決行、政府要人ら4人を殺害し、永田町一帯を占拠しました

こうした相次ぐテロによって当時の政党内閣は崩壊し、軍部が政権を握るようになりました。

 

皆さんは、太平洋戦争の戦争責任は、誰にあるとお考えですか。その責任は長年、軍部にあるとされてきました。

「政党内閣が崩れ、軍が政権を握るようになったから、日本の戦争悲劇を招いてしまったのだ。」

「軍部の暴走や間違った判断によって内閣や行政が振り回され、正常な判断を欠いてしまった日本は泥沼の戦争に突き進んでいった。」

「そもそも、大日本帝国憲法下における政治組織が悪かったのだ」

これは大きな間違いです。

 

軍が政治を運営するようになれば、やがて戦争に突入することなど当時の人達だって分かっていたことです。考えてみれば当然のことで、国家にとっても国民にとっても軍部という組織が大変危険な存在であることは誰の目にも明白です。

だからこそ、現代ではシビリアン・コントロールが重視される。軍人が軍を支配すればいつか大きな問題が起こる。そうさせないために、軍人以外の人達(文民)が軍をコントロールする権限を持つ仕組みを作らなければなりません。

意外かもしれませんが、戦前の大日本帝国もこの原則のもと、政府や内閣が軍をコントロールしていました。

それが昭和に入ると、その原則はもろくも崩れ去り、満州事変などの軍部の暴走を許すことになってしまったのです。

 

その原因は統帥権干犯問題にあります。

まず、統帥権とは何でしょうか。

統帥権とは、簡単にいえば、軍を管理する権限のことです。大日本帝国憲法下の組織図をよく見ると、陸海軍は政府ではなく、天皇の直属機関として定められています。これを「天皇統帥権」と言います。後にこの統帥権を軍部が拡大解釈してその暴走を許す原因となりましたが、統帥権とは、もともとは軍部の暴走を抑えるために設けられたものでした。 

 

それを説明するにあたって明治時代まで遡りたいと思います。

 

大日本帝国憲法の作成責任者であった伊藤博文には、ある懸念材料がありました。

1877(明治10)年の西南戦争に勝利した明治政府は、農民や商人出身の徴兵軍が士族軍に勝ることを立証することが出来ました。

しかし、それも束の間のことで、翌1878年(明治11)年に西南戦争の恩賞が上厚下薄で不公平であったことに憤激した近衛部隊が政府や皇室に対し反乱を起こすという事件がおこりました。竹橋事件です。

近衛部隊とは、天皇を護衛する直属の兵士です。それが皇室に対して反乱を起こしたのです。兵卒(最下級の軍人)らは士官を殺害し、さらに大隈重信の公邸を襲撃、そして赤坂の仮皇居にまで進軍するという事態にまでなりました。反乱はすぐに鎮圧されましたが、近衛兵の反乱であっただけに明治政府はこれ以上ないくらいの大きな衝撃をうけました。

当時は自由民権運動が大盛況で、国会開設は避けられないところまで来ていました。しかし、伊藤博文率いる高級官僚達は、自由民権運動を全く信用していませんでした。

国会を開設すれば、有象無象の輩が政治に加わることになる。そうなれば、政治は混乱し、国の統制が利かなくなるのではないか。そう考えていたのです。

中でも恐れていたのが、軍の扱いです。

1882年末、右大臣の岩倉具視は以下のような言葉を残しています。

「民権派の連中は、もっぱら言論演説をもって政府を攻撃している。彼らは、軍隊はおろか、武器すらもっていない。にも関わらず、政府は民権派の攻勢に不安と恐怖を覚えている。これは異常なことだ。思うに、現在、政府が権力を維持しているのは、陸海軍をしっかりと握り、人民に一切武器を持たせないでいるからだ。しかし、その兵士は何かのきっかけで政府から離反し、その武器を政府に向けてこないという保証はどこにもない。」

 

竹橋事件で思いしらされたように、軍はきっかけがあれば、反乱を起こす。

もし、自由民権運動の連中が政権を握るようになれば、彼らが自由に軍を動かし、竹橋事件以上のとんでもない事件を起こす危険があります。

とにかく、伊藤や岩倉らは国会の開設の前に、軍の扱いを何とかしたかったです。

そこで編み出されたのが天皇統帥権でした。

政府は直ちに「軍人訓戒」を全軍に配布。軍人は政治運動や政談演説を聞くことを禁じ、忠実・勇敢・服従を三大精神として、ひたすら天皇に対する忠誠心を高めることを要求しました。これによって、軍は一種の閉鎖社会となり、その内部では徹底した精神教育が行われるようになったのです。

先述の通り、大日本帝国憲法下では、軍は政府が管理するのではなく、天皇直属の機関だとされていました。天皇の直属機関といえば聞こえはいいですが、要するに政治や行政とは一切関係のない立場に追いやったわけです。政府と軍を出来る限り切り離し、軍が政治に介入しないようにしたのです。

 

軍は、表向きは天皇の直属機関です。しかし、実際にコントロールしていたのは政府で、それが問題になることはありませんでした。そんな天皇統帥権が侵害され、統帥権干犯問題としてクローズアップされるようになったのは、昭和に入ってからです。

 

ということで、次回は、統帥権干犯問題はいかにして起こり、それがなぜ政党内閣の崩壊につながったのかを見ていきたいと思います。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書には載ってない 大日本帝国の真実     武田知弘=著  彩図社

昭和時代 絶対、知っておきたい史実・人物    保阪正康=著  朝日新聞出版

中江兆民植木枝盛 日本民主主義の原型     松永昌三=著  清水書院