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【豊臣秀吉】なぜ秀吉は朝鮮出兵に踏み切ったのか。

 こんにちは。本宮 貴大です。
 この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【豊臣秀吉】なぜ秀吉は朝鮮出兵に踏み切ったのか。」というお話です。
 是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

 

 1590年、天下統一が完了した秀吉は、勢力を海外に広げようとします。秀吉は15万という大軍勢を率いて2回にわたって合計5年間もの間、朝鮮出兵を行いました。1592年の侵攻を文禄の役を開始、1597年には慶長の役と呼ばれる侵攻を行います。
 しかし、この2度に渡る朝鮮出兵は失敗に終わります。これによって豊臣政権の権威を大きく失墜し、分裂してしまいました。なぜ、秀吉は朝鮮出兵に踏み切ったのでしょうか。

 ということで、今回は秀吉の朝鮮出兵はなぜ失敗したのかをるトーリーを展開しながら解説していきたいと思います。

 秀吉は古くからの重臣である石田三成に語りかけました。
「三成殿、おまえさんは本当に賢いやつじゃ。お前さんは戦いよりも、計算や法規の実務が向いておる。これからもよろしく頼むな。」
 一方で秀吉は同じく重臣である加藤清正の立派な体格を愛でながら語りかけました。
「わしは一生懸命に努めたが、身体も小さく、力も弱い。戦場では大した働きも出来なかった。だから清正殿、お前さんが羨ましい。」
 戦国時代初期、優れた人材とは万能であることが要求されました。戦場で兵を指揮して有能であることはもちろんのこと、領地の統治者としても情報収集能家としても優れた能力と多くの経験を持つ必要がありました。
 しかし、秀吉が天下を治めるころになると、それぞれに担当分野が分かれた結果、より専門的な才能が優先されるようになりました。会社組織とは、分業制によって成り立っていることが多いです。法規や経理、計算、商業、通商貿易など戦いを専門とする武士達がそれまで片手間仕事としてやってきた事務作業を専門にする集団が現れました。それが石田三成小西行長といった彼らは頭脳派の事務官僚として豊臣政権を運営しました。
 もちろん、武士の本業である戦場での武術・槍働き、策略・作戦において優れた才能を持つ大名達も豊臣政権の中で大きな影響力を持っていました。それが加藤清正福島正則です。
 彼らは後に文治派と武断派として関ケ原の戦いで死闘を繰り広げますが、この当時は共に太閤秀吉に仕え、それぞれの得意分野を生かして政権を運営していました。
しかし、秀吉の天下統一が達成されると日本全国から戦争がなくなってしまい、加藤清正福島正則のような武断派の得意とする戦場での槍働きや作戦が重要視されなくなってきました。武士の生き様とは、戦場で武功を上げ、その報酬として主君から領地をもらい、一国一城の主として善政を敷くことでした。
 つまり、武士達にとっての‘仕事‘とは、「戦いに勝利し、その報酬として相手の領土を手に入れること。」だったのです。
 武断派の大名達にとって戦がなくなるということは誠に奇妙で不愉快なものでした。
一方で、文治派の大名達はどんどん力をつけ、豊臣政権の中でその影響力を強めていきました。

つづく。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
組織の盛衰           堺屋太一=著  PHP文庫
戦国時代の組織戦略     堺屋太一=著  集英社