日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【五大改革指令】GHQの日本民主化政策をわかりすく

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【五大改革指令】GHQの日本民主化政策をわかりすく」というお話です。
終戦後、GHQの本格的な占領政策の方針は日本の非軍事化・民主化でした。
「非軍事化・民主化」と言われれば、あたかもGHQは日本に平和で平等な社会を創ってくれたように感じてしまいがちですが、平たく言えば「日本弱体化」です。
連合国の立場になって考えてみると、非常にわかりやすいです。
国際社会という檻から逃げた虎(日本)は、山に逃げ込んで各地(中国や東南アジア)を襲いまくった。捕獲チーム(連合国)も何とか捕まえようとするが、手ごわく、何人も犠牲になった。それが超強力な2発の麻酔銃(原爆)でようやく捕まえることが出来た。こんな虎は二度と悪さをしないように、力ずくで抑え込み、牙も爪も引き抜いて、根性(憲法)も叩き直して、心優しい虎に改造する必要があります。
連合軍の戦争はまだ続いており、ここから本格的に「日本をボコボコにする」政策を断行していくのです。

1945年8月15日、鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾後に総辞職し、8月17日に皇族の東久邇宮稔彦親王が組閣しました。1945年8月末以降、連合軍の進駐を受け入れ、旧日本軍の速やかな武装解除、9月2日には降伏文書への調印がされ、正式に戦争が終結したことが確認されました。
さらに敗戦から1カ月あまりたった1945(昭和20)年9月22日、アメリカ政府は「降伏後における米国の初期対日方針」を発表しました。
これは「日本の国家体制を根本から改造し、侵略行為など再びアメリカや東アジアの脅威とならないようにする」ことを究極の目的としたもので、これを受けたマッカーサー率いるGHQは日本を徹底的に非軍事国家とし、民主化を進めていくことにしました。

目的 手段(政策)
軍国主義の廃止 特高治安維持法の廃止
言論及び新聞の自由 プレスコード、検閲
軍のスポンサーを廃止する 財閥解体
小作農から自作農へ 農地改革
資本家を弱体化させる 労働組合の奨励
戦争への反省を植え付ける 教育の自由主義
天皇を神から人間へ 天皇象徴制へ
軍人を処罰する 極東国際軍事裁判
民主的な憲法 日本国憲法の制定

 まず、GHQが行ったのは、徹底した軍国主義の廃止でした。
 さっそく、GHQは1945年10月、日本政府に人権指令を発します。その中には治安維持法特別高等警察特高)の撤廃、共産党員をはじめ政治犯の即時釈放などが含まれていました。
 戦前の軍国主義といえば、「右翼」や「国家主義」のことを指します。GHQはこうした思想を破壊するために、それまで弾圧されてきた「左翼」、「共産主義」を解放することで、
それまで共産主義者社会主義)は危険思想として特高治安維持法によって徹底的に弾圧されてきました。GHQはそんな特高治安維持法を撤廃させたのです。
ところが危険思想である共産主義を解き放てば、日本は再び混乱に陥ってしてしまいます。
しかしGHQは実行しました。GHQにとっては所詮他国の事情だからです。
繰り返しになりますが、GHQの目的は日本を弱体化させることです。そのためにGHQは危険思想とされていた社会主義勢力をも利用しようとしたのです。
(占領初期はニューディーラーとよばれる米国内の左派の主導によって行われていました。)

また、人権指令の中には、言論の自由も奨励されていました。
戦前の日本には表現や言論の自由がありませんでした。
天皇への批判、軍部への批判、国家への批判、戦争への批判・・・・・」
これらの内容の書籍は全て発刊禁止となり、それを口にする人々も憲兵隊によって連行されるなど、弾圧がされていました。
こうした戦前及び戦中期に抑圧されていた思想や言論を解放し、自由を与えなさいという指令です。
これによって、思想や言論の自由など市民的自由の保障が進められたが、一方で、占領軍に関する批判はプレス=コード(新聞発行横領)で禁止され、新聞などの出版物は事前検閲を受けなければなりませんでした。

こうしたGHQが次々に打ち出す政策に東久邇宮はついていくことが出来なかった。なにしろ、閣僚には終戦前の官僚や軍人が混じっているので、「依然として治安維持法は生きている」などと反感を買ったりもした。閣僚たちは戦前期の国家体制をそのまま維持するつもりでおり、G東久邇宮内閣はHQの指令は実行不可能として、東久邇宮内閣は10月9日に総辞職しました。
東久邇宮の後を継いだのは、幣原喜重郎でした。幣原は昭和初年代に「対英米協調外交」を主導してきましたが、軍部の抵抗にあって外相の座を引きずり降ろされていました。
そんな幣原ならば、戦争責任者となる心配がなく、アメリカの歓心を得ることが出来るであろうと判断されたのです。
同10月、マッカーサーは幣原に口頭で「五大改革」を指示しました。
① 選挙権付与による婦人解放
労働組合結成の奨励
③ 学校教育の自由主義化(民主化
④ 民衆生活を脅威に陥れたごとき制度の廃止
⑤ 日本経済の民主主義化

これによって日本の大改造がはじまりました。


最初に行われたのは経済の民主主義化に基づく政策で、財閥や寄生地主軍国主義の温床になったとみて、それらの解体を行いました。財閥解体と農地改革です。
まず、財閥解体ですが、財閥とは、「家族ないし、同族の出資によって持株会社(親会社)を形成し、子会社や孫会社などの株式をまとめて所有し、ピラミッド型支配体制を構築しているファミリー・コンツェルン」のことで特に三井、三菱、住友、安田などは4大財閥と呼ばれました。
少し難しい表現ですが、財閥とは要するに、大きな財力を持ち、一族・同列で様々な分野の企業を独占している超巨大企業のことです。これらの財閥は明治から大正期の日本経済の発展に大きく貢献してきました。
しかし、GHQは戦前の財閥が軍部のスポンサーとなったことで、戦争が助長されたと判断して、直ちに解体を命じました。(実際は違います。戦争とは軍需はあっても、価値を生まないので、本質的には儲かりません。したがって財閥は戦争反対でした。それなのに日本は戦争に突入した。これが‘歴史の謎‘と呼ばれているものです。)
まず、日本1945年11月に三井、三菱、住友、安田など15財閥の資産の凍結と解体が命じられ、翌1946年8月には持株会社整理委員会が設置され、財閥家族や持株会社保有する株が没収され、一般(市場)に売却されました。これによって財閥会社は消滅しました。
また、旧財閥に代わる新たな巨大企業が生まれることを防ぐために翌1947年4月に独占禁止法が制定されました。
さらに、巨大企業による市場の独占は新しい企業の参入を妨げるとして、過度経済力集中排除法が制定され、巨大企業の分割が図られました。当初は325社の企業が対象でしたが、東西冷戦の進行に伴うGHQ占領政策の転換から徹底されず、実際に分割されたのは11社のみでした。

次に農地改革ですが、それまでの日本では小作農たちが獲れた作物の約50%を地主に現物小作料として納めていました。これは江戸時代から変わらない「五公五民」制度で、いわゆる封建制社会のようなしくみでした。
GHQはこうした農民層の窮乏が日本の対外侵略の大きな動機になったとして地主制度を廃止に乗り出しました。
幣原内閣は第一次農地改革案を出しますが、不十分だとGHQに拒否されて、第1次吉田内閣のときに第二次農地改革案がだされました。
ここで自作農創設特別措置法が制定され、それに基づき、政府が地主の土地を強制的に買い上げ、小作農たちに安値で売り渡しました。政府が買い上げる土地は不在地主なのか、在村地主なのかで異なります。
不在地主・・・・農村におらず、農業を行っていない地主のことで、小作地全てを売り渡すこと。
在村地主・・・・農村に住み、農業を行っている地主のことで、1町歩(約1ヘクタール)までの小作地の保有を認め、残る小作地は全て売り渡すこと。(北海道は規模が大きいため、4町歩まで認める。)
これによって小作地全体の約80%が解放され、地主制度はなくなり、多くの農家が自らの農地を得てコメなどの生産意欲を高めました。
こうした農地改革は「封建制度の解体し、民主化そ促進するため」といえば、聞こえは良いですが、一方で地主階級は土地を失い、従来の経済力と社会的威信を失ったことから、やはりこれも日本弱体化政策とみるべきでしょう。

以後、幣原内閣は五大改革を順次、実行させていきました。

婦人の解放とは、女性に参政権を与えることがその中心です。衆議院議員選挙が改正され、選挙資格を20歳以上と引き下げ、男子のみでなく女性にも選挙が与えられました。

労働組合結成の奨励は、GHQが日本の労働者が劣悪な条件に置かれていたことから労働組合の必要性を指示したもので、労働組合を合法化させ、資本家の地位の弱体化を目指しました。
戦前の日本には治安維持法大日本産業報国会という組合活動を弾圧する法律や組織が存在していました。幣原内閣はこれらを廃止し、1945年に労働組合法が誕生。翌1946年には労働関係調整法、1947年には労働基準法が制定され、労働三法がそろいます。
労働組合法には労働者に団結権、団体交渉権、争議権ストライキ権)などが認められ、労働者は権利と賃金を求めて団結して騒ぎを起こすことが出来るようになりました。

しかし、婦人解放や労働組合の奨励は戦前の日本でも衆議院で何度も検討されていた内容です(貴族院が邪魔していた)。
これらの動きは日本を弱体化させるものではなく、むしろ日本を先進国家へと成長させた政策と言えるでしょう。
しかし、ダメージの大きい政策もありました。
それが、学校教育の自由主義化です。
戦前の日本には「皇国史観」と呼ばれるこうした思想が徹底されていました。
「日本は万世一系天皇が統治する神の国である」
「日本国民は臣民(天皇の家臣)として忠君愛国に努める」
GHQはこうした思想こそ、「日本を戦争に導いた危険思想であった」と判断し、こうした教育の解体を行いました。「民間情報教育局(CIE)」という部署を設け、終戦直後の1945年10月から12月までの
教科書に書かれてある皇国の歴史や素晴らしさを教える記述を削除し、新しい教科書を作成しようとしたが、間に合わず、生徒に教科書の不適切な記述を墨で塗りつぶさせるという対処がされました。そのため、墨だらけでほとんど使えないページも出てきました。
さらに軍国主義的な教員も追放(教職追放)させ、道徳(修身)や日本史(国司)、地理の授業もGHQが許可するまで停止されました。

衆生活を脅威に陥れたごとき制度の廃止は、先述の治安維持法特高の廃止、
言論の自由の奨励などになります。

さらにGHQは、「天皇を現人神の国家元首」のまま残しておくと、再び軍国主義の求心力になりうると判断し、天皇象徴制とするよう指示しました。
1946(昭和21)年元旦、天皇に「人間宣言」を発表させ、新憲法制定における天皇の地位を象徴とする方針を掲げました。これによって天皇は威光ある存在であっても、政治的な実権は持っていない地位に納まりました。

そして、最大の日本弱体化政策といえる2大政策があります。それが極東国際軍事裁判東京裁判)と日本国憲法の制定です。

戦勝国は日本に対し、武装解除公職追放だけでなく、戦争犯罪者の処罰も行いました。GHQ侵略戦争を計画・実行して、「平和に対する罪(A級戦犯)」を犯したとして、戦前・戦中における多くの指導者を敗戦直後から次々に逮捕していきました。
1946(昭和21)年4月、まずは28人の容疑者が極東国際軍事裁判所に起訴されました。審理の結果、1948(昭和23)年11月、東条英機をはじめ7人の死刑をはじめ、全員(病死など3人を除く)に有罪判決が下され、翌12月に死刑が執行されました。
A級戦犯の他に、戦時中に捕虜や住民を虐待し、戦時国際法をおかしたもの(B・C級戦犯)としてイギリス、オランダ以下関係諸国がアジアに設置した裁判所で5700人余りが起訴され、984人が死刑、475人が終身刑判決を受けました。
しかし、これらの裁判は事後裁判であり、客観的事実があったわけでもない。
いわゆる「勝てば官軍、負ければ賊軍」であり、戦勝国側の犯罪行為は裁かれず、勝者が一方的に‘正義の理論‘を振りかざし、被告人を次々に裁いていく復讐ショーでした。

1945年10月、幣原喜重郎内閣は、マッカーサーより憲法の民主的な内容に改正するべきではないかと示唆されていました。これを受けて幣原首相は「憲法問題調査委員会」を設置し、国務大臣の松本丞二を委員長に任命して改正案の検討に当たらせました。
しかし、憲法問題調査委員会が作成した改正案、いわゆる「松本案」の内容が毎日新聞にスクープされ、GHQに提出する前にマッカーサーに漏れてしまいました。
マッカーサーは松本案を見て、「以前の憲法と全く変わっていない」として、その内容に呆れ、松本案を却下することを決めました。
代わりにGHQは「仕方ないから我々が代替案を作成する」と日本政府に伝えました。
すると、わずか9日間で憲法改正案(マッカーサー草案)が日本政府に提示されたのでした。
しかし、ここで1つ気になる点が浮上してきます。なぜ、時の最高権力者であるマッカーサーがたった一社の新聞を鵜呑みにしたのだろう。そして法律の専門家でもないマッカーサーらがわずか9日間で新憲法を作り上げてしまったのだろうか。
おそらく、マッカーサーは日本政府に法律を作らせるつもりなど鼻からなく、GHQが最初から作るつもりであり、もうすでに完成していた可能性が非常に高いです。
つまり、GHQは、「日本政府に憲法を作らせたけど、全然ダメだったから、仕方なく我々が作りました。」という敗戦国に憲法作成の権利を与える心の広いアメリカを演出するために、却下する前提で日本政府に作らせたのでしょう。証拠はありませんが。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
やりなおす戦後史             蔭山克秀=著 ダイヤモンド社
昭和史を読む50のポイント        保阪正康=著 PHP
子供たちに知らせなかった 日本の「戦後」 皿木喜久=著 産経新聞
教科書よりやさしい日本史         石川晶康=著 旺文社