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【マッカーサー来日】本当の悪夢はここからはじまった

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【マッカーサー来日】本当の悪夢はここからはじまった」というお話です。

 戦後の日本にはまったく主体性がありません。
 明治時代に誕生した大日本帝国のように曲がりなりにも主権国家として国を運営していたあの時の威厳が完全にありません。
 とにかく行き当たりばったりな政策が続き、その軸がブレブレです。
 戦後、日本は弱くなってしまったのです。

 アメリカの占領政策によって、戦後日本はアメリカに憧れ、アメリカの顔色をうかがい、アメリカに守ってもらい、アメリカに振り回され、アメリカで売れる工業製品ばかり作ってきました。
 そして2008年のリーマンショックでともに沈没しました。

 現在、トランプ政権下のアメリカは今後、世界的な地位をどんどん落としていくことでしょう。それとともに日本もどんどん落ちていきます。1985(昭和60)年の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて遠い昔の話。今はそんなことが嘘のように日本の経済は本当に弱体化してしまいました。

 なぜ、こうなってしまったのでしょう。
 ということで、今回から戦後日本史(現代史)の方に入っていきます。1回目から非常に暗いタイトルですが、GHQによる日本占領政策を見ていきたいと思います。

 

 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日には昭和天皇の肉声が録音された玉音放送がラジオから流れ、日本国民は大東亜戦争が敗戦に終わったことを知りました。そして連合国による占領がはじまりますが、事実上、アメリカ1国の占領となりました。
 鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾後に総辞職し、占領政策を受け入れたのは皇族の東久邇宮稔彦親王(ひがしくにのみやなるひこしんのう)による内閣でした。

 そして1945(昭和20)年8月30日、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が、厚木の海軍飛行場に、愛機「バターン号」で来日しました。

 そんな強気な態度で来日したマッカーサーでしたが、内心ではビクビクしていました。
日本軍の抵抗が予想以上に激しく、4年半にも及んだ死闘の末、アメリカも疲弊していました。
日本が降伏に応じたとはいえ、いつ復讐されるかわからない。二度と自分達に逆らえないように徹底的に叩き潰す必要がありました。
一方、そんな恐ろしく手ごわかった日本本土に上陸するのは、本当に勇気が要ることでした。
 彼はコーンパイプにサングラスという非常に威圧的な態度で来日することで精神的に優位に立とうとしました。まさに「本当は臆病ないじめっ子」そのものです。

「さぁ、あの時の屈辱を晴らすときが来た。ジャップめ、ざまあみろ。」

 マッカーサーは太平洋戦争時、南大西洋地域総司令官としてフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の部下を見捨てて、オーストラリアに亡命しました。
その時彼が残した言葉が「アイ・シャル・リターン(私は必ず戻ってくる)」でした。
しかし、見捨てられたバターン半島の兵士たちは士気を失い、次々に日本軍に投降し、捕虜となりました。そんな兵士たちが収容所に向かう途中、マラリア疲労に次々に死に、到着時には5万人余りにまで減っていました(バターン死の行進)。
「さあ、じっくりと叩きのめしてやる!」

マッカーサーハリー・トルーマン大統領からGHQ(連合国軍最高司令総司令部)の最高司令官に任命されていました。
天皇および日本政府の国家統治の権限は貴官に従属する。その範囲に関しては日本側からいかなる異議も受け付けない。」
として米政府からマッカーサーは絶大な権限を与えられていました。GHQとは、ポツダム宣言の執行のためにつくられた組織で米英ソ中仏など主要戦勝国をはじめ11か国で構成される「極東委員会」の下に設置されていました。
マッカーサーの任務は日本の民主化であり、

マッカーサーがやろうとしたのは、日本の「民主化」という名の「弱体化政策」でした。

来日したマッカーサーは、その日、横浜のホテルニューイングランドに宿泊し、GHQの仮本部を横浜関税ビルに置きました。
そして翌9月2日、東京湾内に碇泊していた戦艦「ミズーリ号」上で行われる降伏文調印式に立ち会うのでした。その碇泊位置は、92年前の1852年、ペリー率いる4隻の軍艦が来日し、その旗艦「ポーハタン」が停泊したのと同じ緯度・経度のところでした。
さらに、ミズーリ号の甲板には2つの星条旗が掲げられていました。1つは真珠湾攻撃がされた時のワシントンのホワイトハウスに掲げられていた48星の「星条旗」で、もう1つは1853年のペリー率いる艦隊の旗艦である蒸気船「サスケハナ」号に掲げられていた31星の「星条旗」でした。(ペリーは1952年と53年の計2回来航しています。)

マッカーサーはわざわざ博物館からペリー来日当時の「星条旗」を持ってきていたのです。
『かつて日本は開国を迫られた際、ペリーから「開国しなければ、江戸に向かって大砲を撃つぞ。」と恫喝され、やむを得ず開国に応じた。』
現代の日本人は、そう思ってきました(思わされてきた)。しかし、実際はそうではありません。
そんな「ペリー恫喝外交伝説」はマッカーサーによって植え付けられたのです。
アメリカは日本と戦う運命にあったのだ。」
「巨大なアメリカ、小さな日本」
こんな構図で日本に徹底的に劣等感を植え付けようとしたのです。

調印式には日本とアメリカをはじめとした連合国の代表が出席し、日本を代表して出席したのは、天皇と政府代表の外相・重光葵(まもる)、軍部代表の陸軍参謀総長梅津美治郎(うめづよしじろう)が出席しました。
梅津は、二・二六事件ノモンハン事件の時のように今回も、後始末を担当しました。

重光はサインにあたり「奴らのペンなど使えるか。おい!ペンを貸せ。」と、自らの書記官の万年筆を借りたといいます。降伏前は「和平派」であった重光だったが、やはり敗戦のくやしさがあったようです。
日本にとってこれ以上屈辱的なことはありませんでした。

さて、ミズーリ号での降伏文書調印式に立ち会ったマッカーサーはその後、皇居前の第一生命ビルにGHQ本部を移しました。
天皇よりも偉い‘ダグラス様‘の誕生です。
私達は8月15日で戦争そのものが終わり、9月2日のミズーリ号での調印式で大東亜戦争は終わったと思っているが、トルーマンマッカーサーは占領というのは依然といて戦争の継続であり、日本政府がどのようなふるまいをしようともそんなことにかまう必要はなく、マッカーサーの意向に反するような行動は全て潰してしまってよいと考えていました。
ここからGHQによる本格的な日本占領政策がはじめていきます。


ということで、次回は占領軍による日本の民主化政策を見ていくことにしましょう。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
やりなおす戦後史 蔭山克秀=著 ダイヤモンド社
昭和史を読む50のポイント  保阪正康=著   PHP
子供たちに知らせなかった 日本の「戦後」 皿木喜久=著 産経新聞出版
嘘だらけの日米近現代史  倉山満=著  扶桑社新書124
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社