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【第一回普通選挙】日本の政治はどのように変わったのか

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【第一回普通選挙】日本の政治はどのように変わったのか」というお話です。

 

戦前の大日本帝国といえば、皆さんはどんなイメージをお持ちですか?

天皇陛下万歳!」とか「ファシズム」とか「お国のために・・・」などが出てくると思います。いずれにしても、非民主主義国家であるというイメージが非常に強いと思います。

民主国家の定義は人それぞれあると思いますが、仮に普通選挙法が成立していることだと仮定すると、大日本帝国とは意外にも世界でも最先端を行く民主国家だったのです。

普通選挙とは、財産や身分などで差別することなく、一定の年齢に達した者に投票権が与えられる選挙のこといいますが、今回は特に男子のみに与えられる普通選挙について取り上げます。

 

世界で最初に男子普通選挙が導入されたのは1848年のフランスでした。続いて1867年にドイツでも男子普通選挙が導入されました。そして1869年にアメリカ、1918年にイギリスと欧米列強を中心に男子普通選挙は導入されていきました。

 

そして日本でも1925(大正14)年に成立した普通選挙法によって、選挙権に納税条件が撤廃され、満25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。有権者数はそれまでの4倍の1000万人を上回るようになり、当時の人口の20%強にまで達しました。

ということで、今回は第一回普通選挙が実施されたことで、日本の政党政治はどのように変化したのかを見ていきたいとおもいます。

 

大正時代最大の遺産である普通選挙法は1928(昭和3)年に初めて実施されました。そんな記念ずべき第一回普通選挙法は皮肉にも政治腐敗を引き起こし、政党政治が必ずしも安定的な世の中を作るとは限らないことが証明される結果となりました。そんな政党政治に失望した国民はやがて軍事政治を支持するようになるのでした・・・・。

 

1925(昭和3)年に成立した普通選挙法は、民主主義の象徴的な政策であり、大正時代に巻き起こった大正デモクラシー最大の遺産であると言えるでしょう。

そんな普通選挙法を成立させた憲政会の加藤高明首相は1926(大正15)年1月に肺炎をこじらせて急逝してしまいました。

跡を引き継いだのは、加藤内閣の重要閣僚であった若槻礼次郎でした。この若槻内閣のもと、1926(大正15=昭和元年)年12月、大正天皇が亡くなり、昭和天皇が即位し、元号も昭和になりました。

 

翌1927(昭和2)年、大蔵大臣の片岡直温(なおはる)が衆議院において東京渡辺銀行が破綻したという不用意な発言をしたことで、国民の間に金融不安が広がり、いわゆる金融恐慌が日本を襲いました。これよっていくつかの銀行が倒産・休業に追い込まれ、やがて台湾銀行という大銀行も倒産しそうになります。

こうした騒ぎの責任を取るカタチで若槻内閣は発足後、わずか1年ほどで総辞職しました。

 

憲政会の行き詰まりを認めた元老・西園寺公望は、野党で衆議院第二党であった立憲政友会(以下、政友会)総裁の田中義一(たなかぎいち)を首相に推しました。

昭和天皇は1927(昭和2)年4月20日、田中義一を首相に任命しました。

こうして憲政会から政友会へと政権交代がされました。

第一党の政党内閣から第ニ党の政党内閣への政権交代が、このとき初めて実現したのです。

したがって、1927(昭和2)年4月20日、政友会内閣としての田中義一内閣が誕生。

 

1927年、野党であった立憲政友会党首の田中義一が総理に就任します。田中義一内閣は外交において軍事的な威嚇、または軍事力をもってでも、日本の国益を守ろうという積極外交を展開します。

ということで、今回は田中義一内閣の外交政策を見ていきながら、張作霖はなぜ殺されたのかについてご紹介していきたいと思います。

 

田中内閣成立後、第ニ党に転落した憲政会は、将来の展望を失った政友本党を吸収・合併し、立憲民政党(以下、民政党)を結成しました。民政会総裁には、加藤内閣で蔵相を務めた浜口雄幸(はまぐちおさち)が就任しました。ここに与党・政友会と野党・民政党による二大政党時代が誕生しました。この2つの主要政党の政策を表にまとめました。

 

政友会

民政党

党首・田中義一

党首・浜口雄幸

積極財政

緊縮財政

強硬外交(特に対中国)

協調外交(幣原外交)

地方分権化を目指す

中央集権化を目指す

借金して見栄を張る政党

ケチでひ弱な政党

三井財閥と結ぶ

三菱財閥と結ぶ

 

憲政会と政友本党が合併したことで巨大政党となった民政党に対し、政友会総裁の田中義一は政権を獲得したものの、少数与党で政局に臨むことになりました。田中首相は議会運営が不安定になることを恐れ、1928(昭和3)年1月の通常国会田中首相は内閣不信任案上程の先手を打ち、解散・総選挙に打って出ました。田中首相衆議院で多数を獲得して政権基盤を固めようとしたのです。

こうして、普通選挙成立後、最初の総選挙(第一回普通選挙)が実施されたのでした。普通選挙法発足によって急増した有権者に訴えかけるよため、両党は新聞広告やポスター、さらにはレコードを利用するなどのメディア戦略を展開し、激しく鎬(しのぎ)を削ります。

政策面に目を向けますと、民政党は憲政会以来の政策を踏襲し、内政においては緊縮財政を唱え、外交においては幣原喜重郎外相による協調外交(幣原外交)を主張します。一方の政友会は、内政においては積極財政をアピールし、外交においては田中首相兼外装の強硬外交を展開しました。特に中国大陸に対しては積極的に進出することを主張します。

 

選挙の結果、与党・政友会の獲得議席は217、民政党は216とわずか1議席でかろうじて政友会が勝利を収めるという結果になりました。この選挙結果に両党は大きな衝撃を受けました。

これ以降、両党は互いに政策をやり玉に挙げ、激しい非難を繰り広げるようになりました。現代でいうところのネガティブ・キャンペーンのようなものです。

政友会は民政党の政策を非難するような内容のポスターを掲げました。

「中央集権など時代遅れよ。これからは地方分権の時代です。地方にもっと光を。」

一方の民政党も政友会の政策を非難するような内容のポスターを掲げました。

「政友会など借金して見栄を張る中身のない政党だ。もっと堅実な緊縮路線で行くべきだ。」

 

以降、政友会と民政党による二大政党間の対立は激しさを増し、足を引っ張り合うという行き過ぎた政治闘争にまで発展してしまいました。

それは敵対政党に対し、ささいなスキャンダルや失策を持ちだし、相手を貶めるために激しく攻撃するという政策論争で、実りある発展的な政策論争とは程遠いものでした。

したがって、両党の最優先目標は多数の得票数と議席数を獲得することです。つまり、両党の掲げる公約はすべて「国民の生活のための公約」ではなく、「選挙に勝つための公約」に成り下がってしまったのです。

 

本格的な民主主義国家としてスタートするはずだった第一回普通選挙法は皮肉なことに政党政治が必ずしも安定的な世の中を保証しないことになってしまったのです。

 

普通選挙が実施され、有権者が爆発的に増えたことで選挙費用も一気に跳ね上がりました。普通選挙実施前まで、選挙の費用は平均3万円ぐらいだったのが、今回の第一回普通選挙では5万円に達し、そして昭和7年の選挙では7万円にもなりました。当時の7万円とは、現在の価値に直すと1億円ほどになります。

こうした高額の選挙費用は一般人ではまかなえません。したがって、立候補者は必然的に資産家かもしくは政党の支援を受けられる者になりました。

政党は、立候補者の選挙権を支援するために公認料というものを設けていました。これは現在の政党の公認料とお暗示もので、政党が選挙費として公認する候補者に一定の資金を渡すというものです。

しかし、政党はそんな政治資金をどこから集めたのでしょうか。

政党は親しい巨大企業や資産家から援助を貰っていたのです。政友会には三井財閥が、民政党には三菱財閥がつき、スポンサーのようになっていました。さらに安田、古河、住友などもそれぞれ政党に資金を提供していました。

普通選挙は皮肉にも政党と財閥の関係を結びつけ、「政治とカネ」の問題という現代でも起こり続けている社会の懸案問題のひとつとなってしまいました。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

5つの戦争から読み解く日本近現代史       山崎雅弘=著  ダイヤモンド社

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著   山川出版社

子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木善久=著  産経新聞