日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【日清戦争】なぜ日本は朝鮮を支配下に置こうとしたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【日清戦争】なぜ日本と清は朝鮮をめぐって対立したのか」というお話です。

  日清戦争勃発のきっかけは、朝鮮半島での甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)ですが、それを語る前に、日本人のロシアに対する恐怖についてお話します。

 日清戦争をテーマにした「漁夫の利」風刺画をご存じでしょうか。学校の教科書等には必ず掲載されている画ですが、朝鮮と書かれた魚を釣り上げようと日本と清が対立しているところを、横取りをたくらむロシアがじっと見守るというロシアの野心が表現されています。

 そう、実は、日清戦争の原因はロシアの領土拡大に警戒心を抱いていた日本が起こした戦争なのです。

 ということで、今回は、「日本がなぜ朝鮮を支配下に置こうとしたのか」を述べていきたいと思います。

日本は江戸時代からずっとロシアの脅威を警戒していました。それは明治維新後も変わらず、ロシアの南下を恐れた日本政府は、朝鮮を支配下に置き、国防強化を図ったのです。

 

 アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアは当時の列強諸国ですが、この中で日本が特に警戒心を強めていたのは、ロシアです。日本は問答無用で淡々と領土膨張を図る獰猛不気味なロシアを得体の知れない存在として恐怖心を抱いていました。

  日本のロシアに対する恐怖心は、18世紀の江戸時代後期にまで遡ります。

 それまで急速に領土を膨張させていたロシアは、18世紀後半になると、東アジアにも目を向けるようになります。

 1871年、学者・工藤平助によって出版された『蝦夷風説考』には、ロシアは、蝦夷地でアイヌと交易していると記されていました。当時、ロシアは赤い軍服を着ていたため、「赤蝦夷」というタイトルになったようです。

 この書を読んだ時の老中・田沼意次は、蝦夷地開拓への強い関心を示し、探検家・最上徳内らを蝦夷地に派遣しました。

 

 しかし、田沼が老中を失脚させられ、松平定信が老中主座に君臨すると、定信は、「蝦夷地に進出するとロシアとの紛争の火種となりかねない。ロシアの南下を阻止するためには、緩衝地帯として蝦夷地は放置するべきだ」という独特の理論を振りかざし、蝦夷地開拓を白紙にしてしまいました。

 そんな中、1792年、ラックスマン根室に来航。ロシアが遂に、幕府に通商を求めてきました。幕府は祖法である鎖国を理由にして、この要求を退けますが、北方に注意を向けざるを得なくなり、松前藩が管轄していた蝦夷地のうち東方面を幕府の直轄地としました。

 

 18世紀に入っても、ロシアはレザノフを長崎に派遣。日本に通商を求めてきました。日本はまたしても祖法である鎖国を理由にロシアの通商要求を拒否し続けました。

 

 幕末(18世紀中頃)になると、イギリスやアメリカなどが東アジアへの進出を開始します。1840年には、アヘン戦争によって、清国はイギリスの支配下に置かれてしまいます。

 

 そしてその脅威は遂に日本にもやってきました。1853年のアメリカ東インド隊司令長官のペリー浦賀に来航し、1844年、日本は日米和親条約を締結します。

 同年、イギリスやフランス、オランダ、ロシアとも同等の和親条約が結ばれます。日本はロシアと日露和親条約を締結し、両国の国境協定が結ばれます。千島列島は得撫(うるっぷ)島から北はロシア領で、択捉(えとろふ)島から南が日本領であるなどの取り決めがされました。

 その中で樺太(からふと)だけは日露両国が入り混じって住む雑居地にするという珍しい取り決めがされました。

 

 しかし、日本が明治時代を迎えた後、ロシアは日露和親条約の取り決めを破り、樺太に軍人や囚人を送るなど日本にプレッシャーをかけ、樺太支配を強めるようになりました。明治政府はこのまま樺太維持をすることが不可能と判断し、同島を放棄せざると得なくなりました。

 

 さらに1861年には、ロシアが対馬を不法占拠するという事件が勃発。ロシアはその領土欲をむき出しにしてきました。幕府は対馬に使いを派遣し、ロシアと交渉するも、あっさり拒否。日本は仕方なく、イギリスに仲介役を依頼しました。イギリスの強力な軍事力に脅威を感じたロシアは対馬から引き揚げました。

 この対馬事件によって、日本はロシアの獰猛さを思い知らされ、日本のロシアに対する恐怖心は一層高まりました。

 

 そこで、明治政府は朝鮮半島を占領下に置くことを考えます。当時、鎖国していた朝鮮が欧米列強、特にロシアの圧力によって開国し、ロシアの支配下に入れば、朝鮮半島の目と鼻の先に位置する対馬はたちまちロシアの占領下に置かれてしまうと判断したのです。

  しかし、朝鮮は日本の開国要求を拒絶します。日本は朝鮮を武力で威嚇してでも開国させようとする征韓論が湧きあがりました。

 征韓論を主張する西郷隆盛に対し、大久保利通らは「国内の近代化政策が先だ!」として西郷の朝鮮出兵を白紙にしていまします。

 征韓論争に敗北した西郷隆盛は、板垣退助らと共に政府を辞職(下野)してしまいます。(明治6年の政変

 

 もっとも、大久保らもロシアの脅威は十分認識していたため、朝鮮侵略は必須だと考えていました。したがって、西郷らが下野したわずか2年後、明治政府は軍艦を江華島に派遣。朝鮮に対し、示威行動という挑発行為をします。案の定、朝鮮半島からは大砲が放たれ、日本はこれを口実に朝鮮半島に侵攻し、1876年、朝鮮にとって不平等な日朝修好条規を締結しました。

 

 さらに明治政府は、「ロシアはやがて北海道にも攻めてくるのではないか」と判断し、北海道に屯田兵を常駐させ、その防備を固めました。

(「蝦夷地」は明治時代に入ると「北海道」と改名されました。)

 

 このように日本はロシアの問答無用の領土拡大に対して常に恐怖心を抱いていたのです・・・。

続きはこちら。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

父が子に語る近現代史              小島毅=著  トランスビュー

早わかり幕末維新                外川淳=著  日本実業出版社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社