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【日清戦争】なぜ日本と清は朝鮮をめぐって対立したのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【日清戦争】なぜ日本と清は朝鮮をめぐって対立したのか」というお話です。

 日清戦争はなぜ起きたのでしょうか。

 日清戦争をテーマにした「漁夫の利」風刺画では、朝鮮と書かれた魚を釣り上げようと日本と清国が対立しているところを、横取りをたくらむロシアがじっと見守るというロシアの野心が表現されています。

  なぜ、日本は朝鮮を支配下にしようと考えたのでしょうか。それについては前回の記事を参照ください。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

  日本と清国は、朝鮮をめぐって激しく対立しました。それが朝鮮半島での甲午農民戦争をきっかけに日清戦争が勃発するのですが、今回は、「なぜ日本と清は朝鮮をめぐって対立したのか」を見ていきながら、ストーリーを展開していきたいと思います。

日本はとにかく朝鮮を支配下に置くこと目指しました。しかし、日本との不平等条約に不満をもった朝鮮では、クーデターや反乱が続発。古くから朝鮮の宗主国であった清国は、朝鮮の不安定な情勢を懸念し、軍隊を派遣します。日清戦争とは、領土拡大を目指す日本と、アジアの秩序を守る清国との間に起きた戦争だったのです。

  朝鮮政府内では大院君(たいいんくん)と呼ばれる保守派と、閔妃(みんぴ)と呼ばれる改革派が激しく対立していました。日本との交易を断固拒否する大院君に対し、閔妃は、一足先に近代化をした日本に習って、日朝修好条規による開国と同時に、朝鮮の近代化を図ろうとしました。政権は閔妃一派が握っており、日本主導による朝鮮の近代化は進むかに思われた。

(大院君・・・国王の父、閔妃・・・国王の妃)

 

 しかし、1882年、事件が起きます。

 日本と朝鮮が締結した日朝修好条規は、朝鮮には大変不平等な条約であり、それに不満を持った保守派の大院君が軍隊の一部を率いて閔氏にクーデターを起こしたのです。大院君一同は王宮を占拠し、閔妃政権を追放することに成功。日本公使館も襲撃しました。これを壬午軍乱(じんごぐんらん)といいます。日本でも幕末にクーデターが起きたように朝鮮でもクーデターが起きたのです。

 

 しかしこの後、思わぬ事態が起きてしまいます。

 

 なんと、清国軍がこのクーデターに介入してきたのです。清国軍は、大院君を王宮から拉致して国内に連れ去り、再び閔氏を政権につけたのです。

 なぜ清国は、朝鮮のクーデターに介入してきたのでしょうか。古くから朝鮮は清国の支配下に置かれており、朝鮮の内乱や日朝関係の悪化は宗主国と従属国の関係を崩すと考えました。宗主国である清国、従属国である朝鮮、これが東アジアの秩序であり、清国はそれを守ろうとしたのです。

 

 こうした清国の介入に感謝した閔一派は、日本サイドから離れ、清国サイドに寝返ってしまいました。これにより、日本の朝鮮支配の影響は弱まってしまいます。

 

 ところが、1884年、ベトナムを植民地にしようと企んだフランスが、ベトナム宗主国である清国と戦争を始めます。(清仏戦争

これを好機ととらえた日本は再び朝鮮の支配を強めようとします。

 朝鮮政府内には、金玉均(きんぎょくきん)や朴泳考(ぼくえいこう)などの改革一派が親日的な組織(独立党)として存在していました。

日本は金玉均らを支援してクーデターを決行させ、閔氏を排除し、日本主導の支配体制樹立を目指しました。

 

 しかし、またも清国軍がクーデターに介入し、計画は失敗に終わります。清国はそもそも日本が朝鮮に押し付けた日朝修好条規を認めておらず、日本を朝鮮から完全に引き離そうとしたのです。

 こうして日本の朝鮮における影響力は完全に潰えてしまいました。

 

 清との関係悪化を恐れた日本は1885年、初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文自らが清国に赴き、会談を始めます。そして同年、清国との間に天津条約(てんしんじょうやく)を結びました。

 この条約によって日清両国は朝鮮半島から撤兵し、「今後、お互いに朝鮮出兵する場合は、事前に報告をする」という取り決めがされました。

朝鮮国内では反日感情が高まってきました。そんな中、勃発したのが甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)です。この頃、日本国内でも外交問題における政府批判が高まっていました。日本政府は、国民の鬱憤を戦争で晴らさせる画策をするのでした・・・。

 

 1890年代に入ると、朝鮮国内では欧米人や日本人を排除しようとする動きが盛んになってきます。この原因は欧米や日本との交易による諸物価の高騰で、朝鮮国内の経済は混乱してしまいました。

 特に日本に対する反日感情は強く、かつて豊臣秀吉朝鮮出兵が‘悪夢‘として語り継がれており、その日本がまた朝鮮征服を企んでいると見抜いていたのです。

 

 そして1894年、閔氏政権の打倒や、欧米人、日本人を追放することを求めて、朝鮮の農民が遂に反乱を起こしました。甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)の勃発です。

 

 日本国内では、この甲午農民戦争鎮圧のために軍事介入するか否かについて国民の注目を集めました。

 この時、日本国内では、第6回帝国議会が開かれおり、立憲改進党、国民協会、大日本協会などの対外硬派連合による政府批判が起きていました。

 対外硬派とは文字通り、外国に対して強硬な姿勢をとる政党で、政府が条約改正と引き換えに外国人の雑居を認めるなどの政府の対応を「弱腰外交」と批判していました。

 

 外務大臣陸奥宗光は、こうした国内問題を対外問題でそらす作戦を画策。清国に戦争をしかけることを決めました。「国民が溜めた鬱憤は、外国との戦争で晴らす。」そんな手法がとられたのです。

 

 一方、朝鮮の反乱は拡大の一途をたどりました。

 鎮圧の自信を失った朝鮮政府は遂に宗主国・清国に応援を要請します。

 清国は天津条約に基づき、日本側に「半島に出兵する」という事前報告をしたうえで、出兵。清国に朝鮮を奪われると警戒した日本も、これに対抗するカタチで朝鮮半島に軍を派遣しました。

 こうして日清両国は朝鮮半島で対峙。

 これに驚いた朝鮮政府は反乱軍と講和を結び、反乱はあっさり鎮まりました。朝鮮政府は日清両国に撤兵を求め、日本は清国と戦争を行う理由を失ってしまいました。

 何とか日清戦争に持ち込みたい外務大臣陸奥は清国に以下のような提案をします。

「日本と清国が共同で朝鮮政府を改革しませんか」と。

 

 しかし、古くから朝鮮は清国の従属国であり、そもそも日本に朝鮮を統治する権限などないとして、清国はこの提案を拒否。

 清国の本音もやはり朝鮮の侵略でした。

 清国でもイギリスやアメリカなどの欧米列強の不平等条約に苦しんでおり、何とか列強諸国に対抗出来るような国力をつけようとする洋務運動が起きていました。そこで、朝鮮を支配下に置くことで、その力を強めようとしたのです。

 

 日本は、まもなく清国と国交を断絶。日本軍は閔氏を政権から引きずり降ろし、大院君を擁立するカタチで、朝鮮王宮を占拠しました。

 そのうえで、朝鮮王朝が日本軍に清国を倒すことを依頼したという口実をつくり、清国に戦いを仕掛けたのです。

 旧来からアジアの大国である清国、それに対して新興勢力となった日本、両者は真っ向から対立し、1894(明治27)年、日清戦争が勃発したのでした・・・。

つづく。

 最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

父が子に語る近現代史              小島毅=著  トランスビュー

早わかり幕末維新                外川淳=著  日本実業出版社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社