【ヴェルサイユ条約】なぜ中国はパリ講和会議を脱退したのか
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【ヴェルサイユ条約】なぜ中国はパリ講和会議を脱退したのか」というお話です。
1919(大正8)年、第一次世界大戦の戦後処理を行うパリ講和会議の結果、ヴェルサイユ条約がむすばれ、新しい国際秩序が誕生しました。日本は戦勝国として出席し、旧ドイツの山東半島や南洋諸島の権益継承に成功します。しかし、中国はこれに反発し、パリ講和会議から脱退してしまいます。ヴェルサイユ体制の最大の問題はウィルソンが唱えた民族自決主義がヨーロッパで実施されても、アジアや太平洋方面での問題には適用されなかった点です。これが1921(大正10)年のワシントン会議につながるのです。
原内閣が出来て間もなく、ドイツで革命が起きました。ドイツは第一次世界大戦にとうとう敗北し、戦後処理の講和を申し入れました。つまり、降伏を宣言したということです。
日本とアメリカがまだシベリア
同時に戦争の責任をとって皇帝ヴェルヘルム2世は皇帝の位を退き、オランダに亡命しました。こうしてドイツの帝政は終わりとなり、ドイツはワイマール共和国になります。さらにドイツの盟友国であった
そして、戦勝国と敗戦国との講和が問題となり、パリ講和会議が開かれることになりました。ここに4年半にも及んだ第一次世界大戦が終結したのでした・・・。
第一次世界大戦は、それまでにない大規模なもので、動員総兵力数約6500万人、死者数約1800万人、戦費合計1860億ドルにまで及びました。
こんな人類の汚点とも言える悲劇を生みだしたことは、戦勝国であるイギリスやフランスは敗戦国のドイツやオーストリアを許すことは出来ませんでした。
感情的になっているイギリスやフランスに対し、仲裁に入ったのは、アメリカでした。
アメリカはそれまで「中立主義」を貫いており、大国同士の争いであった第一次世界大戦の仲裁役としては適任ともいえる国際的立場でした。(アメリカは1917年に連合国側として参戦しています。)
アメリカ大統領のウィルソンは14ヶ条の平和原則を掲げ、自らの理想を掲げました。
第1条 秘密外交の禁止
植民地獲得などの国益のために裏でコソコソやったり、勝手に同盟を結んだりしないこと。
第2条 公海の自由
世界の海を1つの国が独占しようとするから戦争が起きる。公海はすべて共有財産である。
第3条 関税障壁の撤廃
関税という税金をかけるから国家間でイザコザが起きるのだ。世界中を自由貿易にしよう。
第4条 軍備縮小
各国は軍事予算を大幅に削減し、国際平和に努めよ。
第5条 植民地問題の公正な解決
植民地問題で揉めたときは、公正な話合いで解決するべきだ。
第6~13条 民族自決主義
ドイツやオーストリアの支配を受けていた国を解放し、独立国家として認める。民族自決主義の意味については後述します。
第14条 国際平和機構の設立
国際平和を維持・監視する組織をつくりましょう。
まぁ、要するに、「ニ度とこんな悲惨な戦争が起きないようにいろんな国際上のルールを決めましょう」ということです。
これを現実化するためにウィルソン大統領は、フランスの首都パリにて、その会議を開き、戦後処理と、今後の国際平和について様々な取り決めを行おうと各国に呼びかけました。
ウィルソン大統領の理念は世界中に共感をよび、多くの国が呼びかけに応じ、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアを中心に27カ国が参加する大規模な会議となりました。
そのくらい第一次世界大戦はあまりにも残酷な戦争で、世界的にも厭戦気分、反戦気分が高まり、国際間の紛争は武力ではなく、話し合いで決着をつけるという考え方が広く支持されていたのです。
パリ講和会議によってつくられたのがヴェルサイユ体制と、後にワシントン会議によってつくられるワシントン体制なのです。
日本もパリで行われる講和会議に出席するよう要請をうけました。時の首相である原敬は、明治時代からの重鎮で、元老の西園寺公望に行ってもらおうと考えました。
「各国の総理大臣クラスの全権大使が一同にパリに集まります。ここはフランスの留学経験のある西園寺殿に主席全権として行ってもらおうと思います。」
「うん、何年ぶりかのパリか。近代国家・日本として恥をかかないよう随行員全員分の燕尾服(えんびふく)をつくっておいてくれ。」
「西洋人達と美味い酒や社交ダンスですか。いや~羨ましいですな。」
「原くんも行くかね?」
「いいえ。私は今、シベリア問題と米の価格調整がありますので。楽しんできてください。」
日本は少し浮かれていました。大した戦闘もしていないのに、戦勝国として出席するよう言われ、大変気分が良かったようです。
西園寺や原がイメージしていた講和会議は、ナポレオン戦争の戦後処理であるウィーン会議のようなものでした。ウィーン会議は『会議は踊る』という映画でお馴染みですが、ロココ風の建物で、連日連夜、貴婦人達があつまり、大宴会が開かれ、舞踏会を舞台に華やかな貴族的国際外交が行われる・・・・。
そんな会議を日本はイメージしていたのです。
西園寺が首席全権ということになり、大久保利通の弟である牧野伸顕とか、何人かヨーロッパにいた大使がパリに派遣されることになりました。
「パリのホテルを丸ごと借り切っておくように。」
物見遊山気分な西園寺一行は、もう楽しむ気満々です。さらに、お客を接待するときの中国料理と日本料理の名人を連れて、船に乗り込みました。
一行は船に乗り、パリに向けて日本を出発した直後です。
朝鮮で大事件が起きました。
1919(大正8)年3月1日に人々が各地の集会所に集まり、一斉に独立万歳を叫んだのです。彼らはウィルソン大統領が提唱した14ヶ条の平和原則の中にある民族自決主義という政治理念に彼らは共鳴し、「ウィルソン大統領は我々を応援してくれているのだ」と勇気つけられ、一斉に朝鮮の独立宣言を展開したのです。これは三・一独立運動と呼ばれています。
朝鮮とは、無理やり合併させて1905年に韓国統監府を置いて、朝鮮を事実上「保護国」として出来た国ですから、人々は日本からの支配から解放され、独立を願う人達が多かったのです。
この朝鮮独立宣言とそれに続くデモ行進は、平壌(ピョンヤン)など朝鮮各地で同様の決起が起こり、2カ月の間に1500回を超えるデモが行われ、延べ200万人が参加したと言われています。こうした朝鮮人の独立要求のデモに対し、日本政府は武力による鎮圧を決定、現地の朝鮮所属部隊に加え、日本からも日本陸軍が大量に送りこまれ、運動の弾圧を行いました。
朝鮮でのこうした独立運動に触発された中国でも、デモ行進が展開されるようになりました。特に1919(大正8)年5月4日に起こった北京大学の学生が中心となって行われた「山東半島の中国への返還」や「二十一ヶ条の要求の取り消し」を求めて集会が発端しました。日本に対する敵意は強まり、日本製品のボイコット(購買拒絶)やストライキなど社会運動にまで発展しました。しかし、日本は中国でのデモには武力行使は出来ません。中国は日本の統治下にはないので、万が一武力行使した場合、中国の主権侵害として世界から非難されてしまいます。なので、中国側の対応を見守りつつ、ほとぼりが冷めるまで待つしかありませんでした。
日本軍が朝鮮での反対運動の鎮圧に悪戦苦闘している頃、西園寺率いる全権団体は、フランスに到着。パリで開かれる講和会議は1919年6月28日、パリ近郊にあるベルサイユ宮殿2階の広い回廊「鏡の間」で開かれました。
西園寺一行の期待は大きく外れました。
舞踏会など全然開かれていません。
殺伐とした空気で、膨大な書類がたくさん積まれています。これらを1つ1つ議論しながら、毎日、毎日しんどい会議に参加しなければならなくなってしまいました。
民間人を含めて非常に多くの人が亡くなった世界戦争ですから当然といえば当然ですが、日本の予想とは大きく違っていた。そのくらい日本は新興国であり。世界の動きから遅れをとっていたということです。
さぁ、ウィルソン大統領が掲げた14ヶ条の平和原則のうち、今回の講和会議の議題は以下の2つです。
1.ドイツやオーストリアなどの敗戦国に対する戦後処理(民族自決)
2.今後の国際協調路線をどのようにしてつくるか。(国際平和機構の設立)
ドイツは、当時、世界で最も民主的な憲法であるワイマール憲法を制定し、ドイツ共和国として再出発しようとしていました。しかし、周りの国、特に連合国がそう簡単には許しませんでした。戦争の責任を徹底的に追及したのです。
特にフランスはドイツに対し、莫大な賠償を要求しました。それは国家予算10年分を払っても払いきれないようなとんでもない額で、1320億マルクでした。これは平たくいえば、半永久的にお金を払い続けなさいということです。
フランスは徹底的に賠償請求をします。
「ドイツのやったことは最悪なことだ。このくらいの額は当然の報いだ。しかし、今現在、国内が不安定なドイツが払えるとも思えない。一体どうするつもりなのか。」
そんな感情的になるフランスに対し、アメリカは仲裁に入ります。
「まぁまぁ、 ドイツの製品は大変優秀だ。アメリカは今後、ドイツの工業に投資をする。ドイツをたくさん儲けさせ、そこから賠償金を支払わせればよいのではないか。」
20世紀になって経済大国へと急成長したアメリカの資本主義的な考え方は、先に産業革命が起きたイギリスやフランスよりもはるかに成熟していました。さらにフランスは普仏戦争でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌ地方を取り戻しました。
さらに、民族自決に基づいて、ドイツやオーストリアの支配を受けていた国々を解放し、独立国家として認めることで、ヨーロッパのは平和で新しい秩序をつくろうとしました。
最も有名なのはポーランドでしょう。ポーランドは以前独立国家でしたが、18世紀後半
にドイツの占領を受けてしまい、ポーランドという国はなくなってしまいました。それが、今回の講和会議で新しく独立国家として誕生したのです。
民族自決とは、民族自決というのは、独立した民族国家をつくるという意味ですが、争いが起きている最大の原因は領土争いです、なので、民族ごとに国境をしっかりと定めて、新しい国として独立を認めてあげましょうということです。
日本は島国国家というせいもあって、国が1つのまとまりをもっているのは、当然だと思い込んでいるところがあるけれど、そんな国は世界中でごくわずかと言って良いです。
一方、大陸国家では、いろんな民族が入り乱れて住んでおり、民族間の紛争は絶えず起きています。この当時のドイツやオーストリアの周辺の国々にはいろんな民族が入り乱れて住んでおり、民族紛争は絶えませんでした。
特に、ユーゴスラビアはその典型例と言えるでしょう。ここにはクロアチア人、セルビア人、ボスニア人の居住地域がジグソーパズルのように入り乱れていました。
講和会議では、そのような曖昧な地域をまとめて「ユーゴスラビア」という1つの国として独立を認めました。
さらに、チェコスロバキアという国も誕生しました。国際平和のためには、民族問題だけでなく、国の規模も問題になりました。
オーストリアの北側にはチェック人とスロバキア人が住んでいましたが、彼らのような少数民族では、他の国から攻め込まれたり、支配されたりと不安定要素が絶えません。
なので、出来るだけ大きな国土と人口をもった1つの国として固める必要があります。そこで、チェック人とスロバキア人をまとめてチェコ・スロバキアという国が誕生しました。
こうして民族自決に基づいてポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、フィンランドなどの独立が認められ、新国家として誕生。ヴェルサイユ体制としてヨーロッパの新しい国際秩序が生まれたのでした。
ヨーロッパ問題に関する議論は徐々に処理されていきますが、日本の全権大使にとっては、思わずあくびが出てしまうような内容でした。会議の議事録には、ヨーロッパに関する新しい取り決めがどんどん書き込まれていくのに、日本勢は中々、発言しない。
思わずウトウトしてしまう牧野に対し、西園寺が肩を「ポン」とたたく光景までみられるほどでした。
戦勝国として参加しているはずの大日本帝国は、その実力や影響力を及ぼすことが出来ず、まだまだ未成熟な国であることを露呈してしまいました。しかし、それも仕方がないことです。日本はアジアや中国に関しては一生懸命取り組んでいるけれそ、遠く離れたヨーロッパがどう構成され、どう安定していくか、それでどうすれば日本の国益となるかという発想はなかったのです。
しかし、次の議題に移ったとき、日本は非常に重要な役割を担うことになります。
「国際秩序の維持・監視のための機構を組織する。日本も、その常任理事国として加盟して頂きたい。」
ウィルソンは翌1920(大正9)年に国際連盟の発足することを発表しました。その常任理事国は、今戦争の主要戦勝国であるイギリス、フランス、イタリア、そして日本が選ばれました。
国際連盟とは今後の国際協調路線を担う大事な機関であり、その中心なったことは日本の国際的地位を高めていきます。
さぁ、会議はアジアやアフリカ植民地についての議題に入りました。ここに来てようやく日本は発言をするようになります。しかし、その発言は全く的外れで場違いな主張をします。
日本はドイツの持っていた中国の山東省と南洋群島の植民地の引き継ぎを正式に認めてもらうよう要求しました。世界が国際平和を協調している中、日本は帝国主義的な時代遅れな考えを持っていたのです。
それが戦争が勃発して、ドイツが自国の戦争に忙しくなっている間に日本の軍隊が山東半島に上陸し、あっという間に占領してしまいました。日本はこのときの山東半島の権益をそのまま引き継ぐことを日本側の希望として会議に申し出ていたのです。
ところが、中国全権団の一人である顧維金(こいきん)は反論します。
「青島はもともと中国の領土だ。我々は日本から二十一ヶ条の要求という極めて不平等な要求を武力で脅され、調印させられた。なので、正当性はない。」
「ドイツが負けた今、その権益は中国の方にあるのは当然のことだ。この会議で是非、中国領として認めて頂きたい。」
先述の通り、これを求めて中国国内では反日デモが各地で起きていました。顧維金(こいきん)の主張はまさに国民を代表した主張なのです。
しかし、日本は譲りません。
やがて、日本の主張と中国の主張が対立します。
イギリスのロイド首相と、フランスのクレマンソー首相は中国側の境遇に「理解と同情」を示しつつも、当初の約束通り日本側の肩をもつ態度をとりました。
この当時の国際的な実力からすれば、日本の方がはるかに強い。強大な日本の勢いに恐れを感じたのでしょう。多少の議論はされましたが、結局、ドイツの持っていた山東省や南洋諸島は日本が引き継ぐということになり、単に併合ではなく、国際連盟から委任統治というカタチで日本の統治下に置かれることとなりました。
民族自決の原則は、ヨーロッパにしか適用されず、アジアやアフリカの植民地には適用されなかったのです。
しかし、中国は納得しませんでした。
せっかくドイツから山東半島を取り戻せるチャンスだったのに、日本がそのままドイツの権益を引き継ぐことになってしまったからです。なので、中国大使はヴェルサイユ条約への調印はせず、講和会議から脱退してしまいました。
今回のパリ講和会議では、ヨーロッパの民族自決は実施されても、アジアや太平洋では実施されずに据え置かれてしまいました。これを解決するために第29代アメリカ大統領のハーディングの呼びかけで、1921年から開かれるワシントン会議によって様々な取り決めがなされます。
日本はヴェルサイユ条約に調印し、当初の目的を果たしたかに思えた。しかし日本政府はまだ気付いていませんでした。これによって、日本を取り巻く国際情勢が大きく転換したことに。
朝鮮半島の支配権の場合、争奪の相手は清国とロシアであり、日本は日清戦争と日露戦争に勝利し、その権益を手にしました。
それが、今回の講和会議で日本が新たに山東半島や南洋諸島を手に入れたことで、イギリスやアメリカが日本を警戒するようになりました。日本は中国と太平洋にコマを進めたことで、新たな対立構造の中に埋め込まれていきます。これが第二次世界大戦という悲劇をうむことになるのです・・・・・。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
5つの戦争から読み解く日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
明治大正史 下 中村隆英=著 東京大学出版会
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
もういちど読む山川日本近代史 鳴海靖=著 山川出版社
ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社
世界史劇場 第一次世界大戦の衝撃 神野正史=著 ベレ出版