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【産業革命】日本の資本主義はどのように発達したのか

こんにちは。本宮貴大です。

このたびは、記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【産業革命】日本の資本主義はどのように発達したのか」というお話です。

 前半記事では「資本主義社会はどのようにして発展したのか」について、後半はそんな「日本資本主義の特色」について解説していきたいと思います。

江戸時代から明治時代になったことで、日本の産業革命が起きました。工場制手工業から工場制機械工業へ。封建制社会から資本主義社会へ。身分制度が撤廃され、職業選択の自由も与えられました。しかし、自由が与えられたことで、「資本家」と「労働者」という新しい身分制度が誕生しました。

 日本は江戸時代までは封建制社会でした。封建制社会とは一言でいえばピラミッド型の身分制度です。江戸時代は徳川将軍家をトップに「士農工商」の強硬な身分制度は敷かれており、将軍や大名、領民などが「支配する人」、農民や商人などの領民を「支配される人」と呼ばれていました。

 「士農工商」の身分制度のもとでは、

 武士の子として生まれたのであれば、生涯、武士としてその使命を全うしなさい

 農民の子として生まれたのであれば、生涯、農民としてその使命を全うしなさい

 これが常識です。

 農民の子が商人になりたいと思っても、その夢はかないません。職業選択の自由はないのです。

 農民は朝から草を刈り、田畑を耕し、その土地から獲れた作物を、自分では食べずに領主に納め、その残りで慎ましい生活を送ります。それが農民の生き方であり美徳なのです。

 しかし、支配者である領主は労働をせず、領民からたくさんの年貢を取り、裕福な生活をします。領民はその領地に縛られていますから、「もう農民なんかやーめた」ということは出来ません。この時代、脱藩は死罪に値します。

 このように封建制社会とは、人々の自由が制限された、不平等な社会制度なのです。

  

 そんな江戸時代に、マニュファクチュアと呼ばれる生産形態が誕生しました。

 マニュファクチュアとは農村部に工場を設け、そこに農民を労働者として集め、手作業や流れ作業などによって商品を製造する工場制手工業のことです。資本主義社会の原型が徐々に出来上がっていったのです。

 このマニュファクチュアは全国的に広がり、各藩がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられました。藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきたのです。

(専売・・その藩のみが独占的に特産品を売ること。)

 中でも雄藩としてのしあがったのは、薩摩藩長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。

こうした商業を通じて経済力をつけた雄藩が徳川将軍家という封建社会の最高支配者を倒すことを企てました。これが幕末の革命になります。

 

 さらに、ペリー来航をきっかけに、欧米列強に産業や技術、文化において相当な遅れをとっていることを痛感し、日本は近代化を目指しますが、江戸時代からの強固な身分制度は近代化への著しい妨げになるという指摘がされました。

 お雇い外国人として来日したフルベッキは「日本も近代国家建設のために全ての国民を法のもとに自由で平等であるべきだ」と説きました。フルベッキの門下生であった大久保利通伊藤博文大隈重信など後の明治政府の中心人物となる人物がいました。

 

 明治政府発足後、日本は近代国家樹立を目指して富国強兵や文明開化をスローガンに列強諸国と肩を並べる強国となるべく邁進していきました。中でも、富国強兵の前提となる殖産興業に取り組み、西洋の資本主義社会を取り入れていきました。殖産興業とは読んで字のごとく西洋の産業をそのまま移殖し、業を興すという意味です。

 近代国家樹立のために明治政府は、江戸時代の士農工商身分制度を撤廃し、四民平等としました。それと同時に、職業選択の自由も与えられました。

 

 職業選択の自由が与えられたことで、人々は封建制社会から解放されました。しかし、人々は結果的に「資本家」と「労働者」という新しい身分制度の中に組み込まれていくのでした。

 なぜ、そうなったのでしょうか。

 自由って重いんです。20世紀のフランスの哲学者・サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言いましたが、自由は責任と表裏一体の関係にあるのです。

例えば、自分で独立開業しても良いけど、それによって生じた結果に対しても自分で責任を負わなくてはいけないのです。

 そこで、責任を負いたくないと思う人達が出てきました。

 責任を負うくらいなら自由は制限されても、誰かに支配される(雇われる)方が良いという人達です。平たくいえば、「資本主義社会の中で成功するにはどうすれば良いか」と考えることを放棄した人達です。その人達は労働者として資本家に雇われる道を選びました。

 人々は資本主義社会の中で人々は資本家になった人達と、労働者になった人達の2大階級に分かれました。

 

 こうして日本は産業革命を経験し、資本主義が急速に発展していきます。産業革命とは一言で表すと「今まで手で作っていた製品を、機械で作るようになった」ということです。労働者はそれまでの職人タイプではなく、機械を動かすオペレーターとして働くようになりました。工場制手工業(マニュファクチュア)から工場制機械工業に移行したのです。

 こうした機械技術の飛躍的な進歩によって安価な製品が短時間で大量につくることが出来るようになり、大量生産大量消費社会に転換しました。人々の生活は格段に便利なものとなっていきます。

 日本の産業革命は大きく2回訪れます。軽工業部門で起きた第一次産業革命と重工業部門で起きた第二次産業革命です。

 明治政府は日本が欧米列強の植民地に転落しないよう「富国強兵」をスローガンにしました。「富国強兵」とは「国を富ませて兵を強くする」という意味ですが、その前提となる殖産興業を政府は民間と二人三脚で力を注いでいきました。

 政府は民間へのモデルとして最新工場を各地に設けていきました。これを官営模範工場と呼びます。工場には有能な外国人を高額で招き、欧米の先進技術を知識人や技術者に習熟させたのです。

 その代表例が1872年に開業した群馬県富岡製糸場です。この工場にはフランス製の最新機械が設置され、フランスから技師も招かれました。

 その甲斐あって、1880年代後半から日清戦争終結までの間に、綿糸や製糸などの軽工業の分野で産業革命が起きました。日本は大量の綿糸や絹織物、生糸を大量に製造し、海外に輸出しました。

日本製品は品質だけでなく、価格も安い。」

 日本の製品は中国やアメリカで爆発的に売れました。

 以上が第一次産業革命で、軽工業分野は目覚ましい発展を遂げたにのに対し、重工業部門はかなり立ち遅れていました。しかし、「富国強兵」を目指す日本にとって、軍事工業の基礎となる鉄鋼の国産化は必須で、日清戦争後の軍備拡張や鉄道敷設などの鉄鋼の需要増への対応が急がれました。

 

 重工業分野が発展する第二次産業革命は日露戦争終結後におこります・・・・。

日本の産業革命は半世紀という驚異的な速さで起こりました。それはまさに革命と呼べる大変革です。こうした急速な資本主義社会の成立・発展は、江戸時代以来の日本人の思想や精神などの歴史的前提条件が可能にしたのでしょう。

 日本の資本主義の特色は欧米先進諸国が200~300年を要した過程を、せいぜい半世紀という極めて短期間で達成し、急速に発展していきました。こんな「高度成長」は世界の歴史上でも日本くらいでしょう。

 西洋の産業革命は18世紀末のイギリスが最初と言いましたが、その経済的・社会的変化は革命と呼べるほど急激な変化ではなく、産業革命という用語の使用をさける学者もいるくらいです。そういう意味では日本の資本主義経済の始まりはまさに「産業革命」と呼べるでしょう。

 もっとも、日本の資本主義の発展はすでに産業革命が終わっていた欧米諸国の経済制度や技術、知識を日本にそのまま移殖したからに他なりません。それを差し引いても、日本の急速な発展は注目に値します。

 また、産業化の推進には巨額の費用を必要としましたが、ほとんど外国資金に頼ることなく達成されたことも注目に値します。日本の産業化を支えたのは生糸です。開国以来、生糸は日本の主力製品であり、欧米を中心に爆発的に売れ、それで儲かったお金でお雇い外国人や外国製の機械設備を購入し、国内産業を成立・発展させたのです。

なぜ、日本は急速に資本主義経済を確立出来たのでしょうか。

理由は2つ考えられます。

 1つは「日本人の勤勉性」ではないでしょうか。江戸時代には徳川家康の命によって林羅山によって体系化された朱子学寺子屋教育として教え、「勤勉こそが美徳」という思想が徹底されていました。

 現在の日本にも「働かざる者、食うべからず」という言葉がありますが、日本人には「勤勉こそが美徳」が根付いており、生活の糧を得るには、何かしらの労働をすることが必要であると考えます。しかし、海外ではこの発想は中々根付いていません。

 1つ例をあげますと、東南アジアの某国で、交通料を取ろうと、通路をふさぎ、お金を巻き上げている人達がいました。彼らは役人ではなく、一般人です。このような日本ではありえないような卑怯なやり方でお金を稼ごうと考える人達がいるのです。

 

 もう1つは国民の大半が同一民族、同一言語を話し、宗教的な対立や民族紛争もない仲間意識や同胞意識があったことです。これほどの単一民族のみの国は世界では稀です。これは島国という日本の地理的な要素や鎖国という江戸時代特有の政策もあって、海外から移民が入ってこなかったことが、むしろプラスに働いた典型例でしょう。 

 

 これは戦後の日本にも言える事です。1945(昭和20)年に日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦しました。敗戦後の日本はすっかり焼け野原になり、「資源のない日本は、これからどうなるのか。」と先行き不透明な混乱期に突入しました。

 しかし、海外から輸入した資源を加工して、高性能な製品として輸出する加工貿易と疲れを知らない日本人の働きぶりによって、日本は大きく成長しました。そして、1985(昭和60)年には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となり、国民一人当たりの総生産は世界1位を記録しました。敗戦からわずか30~40年という短期間でこれだけの急成長を遂げた国は世界でも類を見ません。まさに奇跡の復活と言えるでしょう。

 アメリカやイギリスなどの欧米列強からは「ジャパン・バッシング」とよばれ嫉妬の対象となり、シンガポールやマレーシアなどの東南アジアからは「ルックイースト政策」とよばれ、極東の国・日本は憧れの存在としてその手本となりました。

 このように勤勉実直な日本人の性格は、古くからの武士道精神や江戸時代に徹底された高い道徳心によって作られたものなので、それが急速な産業革命と経済発展を可能にしたのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史          石川晶康=著  旺文社

もういちど読む山川日本近代史        鳴海靖=著   山川出版社

学校が教えないほんとうの政治の話      斉藤奈美子=著 ちくまプリマー新書