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【琉球の歴史】中継貿易で栄えた琉球とは?

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【琉球の歴史】中継貿易で栄えた琉球とは?」というお話です。

 

沖縄は、かつて琉球と呼ばれていました。琉球が歴史の最初に出てくるのは、607年の隋(中国)の『隋書』東夷伝です。

「隋の煬帝琉球に使者を遣わしたが、全く言語が通じなかった。」

翌年、煬帝服従しない琉球の宮殿を焼き払い、3000人を捕虜としたと伝えられています。

 

古来、琉球人は貝塚文化とよばれる漁労・採取生活をしていたが、10世紀になると、稲作がはじまり、やがて貧富の差も生まれました。

12世紀前後になると、沖縄各地で按司あじ)と呼ばれる首長が出現し、グスクが形成されていきました。グスクとは、集落のことでしたが、各集落同士が武力闘争をはじめるようになると、次第に立派な石垣によるグスク(城)が築かれるようになり、按司を中心に武力闘争を開始しました。

 

14世紀になると、按司の抗争によって統合が進み、沖縄本島は、北山・中山・南山の3つの勢力に分かれて対立するようになりました(三山分立時代)。

1368年、中国に明が建国されると、4年後の1372年、明から朝貢を求める使者が島にやってきました。これに最初に応じ、明に朝貢を行ったのは中山王で、その後、北山王、南山王も続きました。

3つの王国が三つ巴の勢力争いをする時代は約100年続きましたが、15世紀に入ると、南山王の支配下にあった佐敷グスク(沖縄県南城市)から尚巴志という漁夫の子が現れ、島の統一に乗り出しました。

尚巴志は、購入した大量の鉄を農具に仕立てて農民に分配し、1406年、彼らの助力を得て苛政を敷く浦添グスク(沖縄県浦添市)の中山王を攻め滅ぼした後、本拠を首里グスク(沖縄県那覇市)に移しました。

さらに、尚巴志は1416年には北山王を、1429年には南山王を討伐して全島を平定する。そして明から「尚」姓を賜り、支配権を承認され、琉球王国を創設しました。

しかし、尚巴志の血を継ぐ王統(第1尚王朝)は、1470年に暴政を行った尚徳の代でクーデターによって絶え、代わって農民だった金丸という人物が掌握、尚円と称して第2尚王朝を打ち立てました。

この第2尚王朝は、尚円の子である尚真の時代に黄金期を迎え、16世紀には北は奄美大島(鹿児島県)から南は与那国島にいたる島々が琉球王国の統治下に入りました。

また、尚真は、明に朝貢してさかんに朝貢貿易を行いました。しかし、琉球王国には朝貢貿易に必要な輸出品(みつぎ物)は、国内でとれる硫黄と馬などの特産品くらいしかありませんでした。

そこで、日本や朝鮮、東南アジアとも交易をおこない、日本からは美術工芸品や刀剣・銅などを、朝鮮からは陶磁器や朝鮮人参(薬用植物のひとつ)、東南アジアからは香料、染料、スズ、象牙などの産物を手に入れました。

各地から集められた産物は、明への貢物となったり、他の地域へ輸出されたりしました。こうして琉球王国は中継貿易の基地として栄えました。

琉球王国の貿易港は、主に那覇港であり、同港には島の各地からの産物を乗せた琉球船がさかんに出入りし、港に集められた産物を求めて外国船も数多く出入りしました。

尚真は、海外との交易によって繁栄を築きました。

このように琉球王国は、明・朝鮮・日本・東南アジア各国に積極的に船を遣わし、さかんに貿易を行うことで、国際交流の架け橋としての地位を不動のものにしました。

しかし、このような中継貿易の隆盛は、16世紀のポルトガルをはじめとしたヨーロッパ船のアジア来航とともに終焉を迎えました。

こうした状況につけこんで、薩摩国の島津氏は琉球王国に様々な要求をつきつけるようになり、1609年には、ついに武力制圧されてしまいます。以後、琉球王国は、島津氏のもとで長年にわたり搾取され続けることになりました。

そして、明治維新後の1872年、沖縄本島は鹿児島県管下の琉球藩となり、1879年には、明治政府が軍隊と警察官を同島へ派遣、その武力を背景に琉球王・尚泰首里城の明け渡しを命じ、琉球王国は消滅。代わりに沖縄県が設置され、同地は完全に日本に合併されたのでした。