【南北朝時代1】なぜ足利尊氏は朝廷に反逆したのか【足利尊氏】
こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【南北朝時代1】なぜ足利尊氏は朝廷に反逆したのか【足利尊氏】」というお話です。
後醍醐天皇の公家重視の政策(建武の親政)は、武士に不満を買い、その結果、後醍醐政権は樹立後1年もたたないうちに各地で武士の反乱が相次ぐようになりました。
そんな武家政権の復活を願う武士たちが注目したのは、源氏の名門・足利尊氏でした。尊氏は清和源氏の血を引き、鎌倉幕府の滅亡の武功第一で、武士達にとっては願ってもない人物でした。このように尊氏は新しい武家の棟梁として幕府を復興してほしいと願うようになりました。
尊氏は決して天皇を追い出して自分が天下を取ろうとする野心家ではなかったが、武士たちの声を無視するわけにもいかなかった。
そこで尊氏は、武家政権を復活のために幕府を開くことを決意しました。しかし、幕府を開くには、朝廷から征夷大将軍に任命される必要がありました。
そんな中、1335(建武2)年、北条時行が鎌倉幕府の再興を狙って、関東で挙兵し、鎌倉に攻め込む事件が起こりました。時行は北条最後の執権・高時の次男であり、武家政治の復活を遂げようしたのです(中先代の乱)。
鎌倉将軍府には尊氏の弟の直義が就いていました。尊氏は直義の救援のため、さらに朝廷(後醍醐天皇)からも時行討伐の命を受けたため、鎌倉に兵を出しました。その際、尊氏は朝廷に「征夷大将軍」の位と東国の管領権を要求しました。
尊氏は、幕府を開く権限と、このときすでに対立関係にあった新田義貞の領土をはく奪する権限を求めたのです。
しかし、尊氏の要求は却下されました。後醍醐天皇にとって、武士など見下すべき存在であり、かつての北条幕府も大嫌いでした。そんな後醍醐天皇が尊氏に「征夷大将軍」の位など与えるはずもありませんでした。
そこで、尊氏は自ら「征夷大将軍」を名乗り勝手に出陣しました。一方で尊氏は天皇の命に背き、一時的に「賊軍」の汚名をかぶることとなったのです。驚くべきは、そんな尊氏に在京武士の半数以上が従い、尊氏軍は強大な兵力として鎌倉に向かったのでした。
そんな尊氏軍にとって時行軍など、もはや敵ではなく、時行をあっさりと討ち果たしました。
強大な兵力を率いる尊氏に、朝廷はおもねるかのごとく労をねぎらい、京に兵を戻すよう促した。
しかし、尊氏は鎌倉で勝手に論功行賞を始めた。この機会に新田義貞の基盤を奪おうというのだ。東国にあった新田の領地をことごとく部下達に与えたのである。
これを知った新田義貞も畿内にある足利方の土地を取り上げたので、義貞と尊氏の対立は決定的なものとなり、源氏の嫡流の二派が争うことになった。
しかし、尊氏はこのままでは天皇に背いた「賊軍」となってしまいます。
その一方で、そんな尊氏に、多くの武士たちが慕っていたことも事実です。
一方、京都では、天皇の命により「官軍」となった新田義貞軍が尊氏討伐のため鎌倉に向かいました。
尊氏軍はそれを迎え撃ちます。箱根・竹ノ下の戦いで激突。結果、義貞軍は敗れ去り、尊氏は逆に京都に攻め上りました。
陸奥守鎮守府将軍・北畠顕家が、奥州に奉じていた義良親王とともに援軍に駆け付け、また楠木正成、名和長年も大いに戦いったため、尊氏軍は多くの有能な武将を失い、いったん九州に逃げた。
そこで、尊氏はあることに気づきました。
「やはり、戦争には‘錦の御旗‘が必要である。」
つまり、日本では、天皇を担いで「官軍」として戦わなければ、結局は敗れ去ってしまうということです。
通常の時代情勢であれば、朝敵が官軍となるのは難しい。しかし、このときは簡単だった。皇室が大覚寺統と持明院統に分かれているのだから、その一方を持ってくればよい。
「尊氏殿、ただいま、皇室において不遇をかこっている持明院統を担ぎあげるのが良いでしょう。」
持明院統は、後醍醐天皇による建武の親政以来、政治的にはまったく片隅に置かれ、貧しい恵まれない生活を強いられており、欲求不満が高まっていました。
円心はそこに目をつけたのです。
こうして尊氏は、大覚寺統の後醍醐天皇に対抗して、持明院統の光厳上皇に使いを送り、自分が官軍であることを示す院宣を賜るように願いでました。
欲求不満を感じていた持明院統は大喜び、さっそく院宣を与えることにしました。
こうして尊氏側も「官軍」となり、後醍醐天皇率いる京都側にとっては非常に厄介な存在が生まれる結果となりました。
こうして後醍醐天皇とはまったく別の新しい光明天皇が誕生し、その光明天皇によって足利尊氏は征夷大将軍に任命され、幕府を開くことになりました。これが後の室町幕府です。
これが、やがて以後60年間も続く南北朝時代に発展するのでした。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献