【南北朝時代3】なぜ南北朝動乱は60年も続いたのか
こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【南北朝時代3】なぜ南北朝動乱は60年も続いたのか」というお話です。
南北朝時代とは、天皇が2人いるという非常に不安定な時代ですが、そんな時代がなんと60年も続いてしまいした。
その原因は何でしょうか。
後醍醐天皇に敗れた足利尊氏は1336年、九州で再起し、京都へ出陣。天皇軍を撃破し、京都を占拠。その際、擁立した持明院統の光明天皇(北朝)から征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開きました。
一方、大覚寺統の後醍醐天皇は、いったん尊氏と講和を結んだものの、吉野(奈良県吉野市)へ脱走し、南朝を起こした。
こうして我が国に朝廷(天皇)が2人並立するという前代未聞の「南北朝時代」が始まるのでした。
以後、北朝(幕府側)と南朝は全国各地で激しく対立するも、当初は北朝が圧倒的に有利でした。南朝方の新田義貞や北畠顕家といった勇将たちが次々に討ち死にし、1339年8月には、後醍醐天皇も死没し、その後を継いだ後村上天皇がまだ12歳の少年だったため、南朝勢力は急速に弱体化していきました。
北朝側では、尊氏が弟の直義(ただよし)と幕府の権限を分担し、尊氏が将軍として武士の統率にあたる一方、直義がおもに政治をみることになりました。
ところが、この幕府の政治路線をめぐって、尊氏を補佐していた執事・高師直と直義とが、しだいに対立するようになりました。幕府は、直義を支持する鎌倉幕府以来の御家人の勢力と、師直を支持する新興武士の勢力とに分かれました。
直義派は、法令秩序を重んじ、公家と武家共存を唱える漸進派なのに対し、師直派は、武力による所領拡大により、全国を傘下に置く武家政権の樹立を唱える急進派でした。両派の対立はしだいに激しさをましていきます。
そうしたなか、後醍醐天皇の死後、力が衰えていた南朝方が、1347年に楠木正成の子・正行(まさつら)を大将として挙兵し、幕府を破る勢いをみせました。
そこで幕府は翌1348年、高師直・師泰(もろやす)兄弟を大将にして正行軍を攻め、大阪の四条畷(しじょうなわて)の戦いで正行を戦死させました。幕府軍はさらに吉野に攻め入り、御所を焼き払い、南朝を賀名生(奈良県五條市)へと追いやります。
手柄をたてた高師直は、勢いにのって以前から対立していた直義を政治からのぞくよう尊氏にせまりました。尊氏がそれを認めたため、争いは尊氏と直義にまで広がり、幕府の主だった武士たちも尊氏派と直義派に分かれて争うようになりました。結局、師直は直義派の武士に殺され、尊氏が直義を毒殺されたことで内紛はひとまずおさまりました。この争いを観応の擾乱といいます。
幕府内の争いには決着がつきましたが、滅亡寸前だった南朝方がこの間に良を吹き返すこととなり、南北朝の動乱はいっこうに収まらず、全国各地の武士達が南朝方と北朝方に分かれて争いました。
南北朝期の武士社会は、分割相続から単独相続への移行期にあたり、一族の惣領だけが領地を相続することになっていたため、一族内で嫡子(家督の相続者)と庶子(嫡子以外の子)で相続争いが激化していました。こうした一族内の対立が続く中で、武士達のつながりは血縁的結合から地縁的結合によって結びつくことになりました。彼らは各地方や地域の主導権や利益を握ろうと互いに争い、それが南北朝の争いに加勢するカタチとなり、一方が北朝につけば、他方は南朝に加担するといった状況が生まれていました。
こうして南北朝の争いは泥沼化し、60年間も続いてしまいました。一時は勢力を盛り返した南朝が、京都にたびたび乱入しては同所を占拠するようになりました。これに対して、北朝側は1358年に尊氏の死後、嫡子の義詮が2代将軍に就いた後に都を奪還しています。
結局、南北朝時代は尊氏の孫の3代将軍・足利義満が1392年に南朝と交渉して南北朝の合体を実現し、終焉しました。条件は北朝の後小松天皇が南朝の後亀山天皇から皇位を譲渡する代わりに、南朝側の皇子を皇太子にするというもの。この頃は、南北朝対立当初の主力人物の多くは既に死没しており、もはや両朝には争う意義は薄いものとなっていました。後亀山天皇は、これを了承し、京都に帰還して後小松天皇に神器を譲って退位しました。
しかし、実際のところ皇位は北朝(持明院統)が継承するようになりました。義満は京都の室町にある花の御所とよばれる邸宅で政治を行ったので、足利幕府は室町幕府と呼ばれるようになりました。
こうして60年あまり続いた南北朝の動乱は終結を迎えたのでした。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
アナウンサーが読む 山川詳説日本史
聞くだけ日本史 古代~近世 東京大学受験日本史研究会