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【建武の親政】なぜ2年で終わってしまったのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【建武の親政】なぜ2年で終わってしまったのか」というお話です。

 

1333年5月、鎌倉幕府が滅びました。それは源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから約140年後のことでした。

同年6月、京都にもどった後醍醐天皇は、幕府が即位させた光厳天皇を認めず、翌1334年、年号を建武とあらためて、強力なリーダーシップを発揮し、独裁政治を開始しました。よってこの政治を建武の親政といいます。

天皇が目指したのは、これまでのように公家は天皇が、武家は将軍が率いるのではなく、公家も武家もみな天皇がひきいて政治をおこなうことでした。具体的には、土地や人民を天皇のものする公地公民制の復活であり、貧困や格差社会をなくそうとしたものでした。

それは延喜・天暦の治と称えられた10世紀前半の醍醐天皇村上天皇の政治を理想としたものでした。

しかし、この後醍醐天皇による親政はたった2年で終焉してしまいました。

その原因はなんだったのでしょうか。

それは、北条氏の鎌倉幕府が恩賞問題で衰退していったように、建武の親政も恩賞問題で崩壊していきました。

 

後醍醐天皇は、幕府や院政はおろか、摂政・関白さえもすべて廃止しました。

後醍醐天皇は、天皇を中心とする政治を目指して朝廷の政治のしくみを整えるとともに、新たに天皇直結の機関(中央組織)として、以下の機関を設けました。

記録所・・・・国政の重要事項を審議する機関。

雑訴決断所・・・・鎌倉幕府の引付を引き継いだ機関で、所領問題を処理する。

恩賞方・・・・武功や功労に対する恩賞をあつかう機関。

武者所・・・・武士で構成され、京都の警備・護衛をする機関。

さらに、地方組織には以下の機関を設けました。

国司と守護・・・公家である後醍醐天皇は各国を統治する国司・守護の任命権を握り、国司に大きな権限を与えるも、守護の権限は抑制するカタチをとりました。

鎌倉将軍府・・・皇子を鎌倉に派遣し、関東の統治にあたらせた。しかし、実体はむしろ鎌倉小幕府というにふさわしい旧幕府系の武士を重用したものでした。

陸奥将軍府・・・鎌倉将軍府同様に、皇子を多賀(宮城県多賀城市)に派遣し、東北の統治にあたらせた。

 

しかし、後醍醐天皇の意気込みにも関わらず、所領や恩賞の問題をめぐって天皇の政治は混乱が続きました。

公地公民制を目指す後醍醐天皇は、それまで武士達がもっていた所領については綸旨(天皇が出す命令書)によってあらためて承認を得なければ所有権は認めないという法令をだしました。

すると、土地の所有権を認めてもらおうと、全国の武士が京都におしよせて大混乱となりました。実は、この混乱を抑えようと新しく設けられたのが雑訴決断所でした。しかし、後醍醐天皇は役人を能力のあるなしに関わらず採用したため、事務は滞り、ニセ綸旨がはびこるなどかえって混乱することになりました。

 

鎌倉幕府を倒した恩賞については、武士では足利尊氏が軍功第一とされ、新田義貞楠木正成名和長年があらたに守護に任命されましたが、そのほかの武士に対する恩賞は十分取り上げられませんでした。建武の親政の立役者であるはずの楠木正成でさえ、もともとの領地である河内の他に、摂津を与えられただけであり、将軍にされることはありませんでした。

恩賞方には、天皇側として戦ってきた地方の武士たちからも恩賞を求める請求が出されましたが、公家に比べて武士たちの恩賞は非常に少なく、不公平なものでした。

1334年、天皇は年号をあらためると同時に、皇居と諸官庁をふくむ大内裏の造営と貨幣の発行計画をたてました。大内裏の造営にかかる莫大な経費を抑えるため、全国の地頭や荘官に対し、収入の20分の1を新税としておさめるように命じました。さらに、造営のための労働力として人夫をとりたてました。

 

このように後醍醐天皇の政策は、150年以上続いてきた武士中心の社会的慣習をまったく無視しておきながら、一方で旧幕府の武士の力に頼るものでした。

これに武士達が納得いくはずがありません。

武士達は反発し、社会は混乱に陥った。

後醍醐天皇の親政は、性急で時代錯誤なものでした。

その様子を皮肉った落書(匿名で政治や社会を批判・風刺した文書)が、天皇の御所のすぐ近くにある鴨川の二条河原に掲げられました。そこには、社会の混乱を招いた建武の親政に対する京都の民衆の思いが書きつらねられました。以下は、その現代語訳です。

最近の都では、こんなものが流行っている。夜討ち、強盗、ニセ論旨、人が捕まって急ぎの使者が馬に乗ってとんでくるが、たいした事件ではなかったりする。切られたばかりの首が運ばれてくることもある。坊さんが俗人に戻り、俗人が勝手に出家してしまう。急に大名に成り上がった者も、落ちぶれてウロウロしている。領地を認めてもらいたくて、恩賞を貰いたくて、うその合戦をでっちあげる者もいる。土地の裁判のために本拠地からやってくる者もいる。

天皇親政が実現したのは、足利尊氏新田義貞といった武士の活躍があったからこそ。しかし、後醍醐天皇はその事実を軽視し、討幕の恩賞は公家に厚く、武家に薄いものでした。

後醍醐天皇にとって、武士などというのは、見下すべき存在で、朝廷や公家のボディーガードでしかない。もっというと、武士なき世こそ望ましい。

そもそも建武の親政の理念が、天皇率いる公家が政権を運営していた400年前に時間をさかのぼろうとした時代錯誤の政策だったのです。

 

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社 

読むだけですっきりわかる 日本史   後藤武士=著  宝島社文庫

アナウンサーが読む 山川詳説日本史 

聞くだけ日本史  古代~近世  東京大学受験日本史研究会