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【南北朝時代2】なぜ天皇が2人も存在するようになったのか【足利尊氏】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【南北朝時代2】なぜ天皇が2人も存在するようになったのか【足利尊氏】」というお話です。

 

北条氏によって専制政治が進められていた頃、京都の朝廷では天皇家持明院統大覚寺統の2つの皇統(天皇の血統)に分かれ、皇位継承をめぐって争いをはじめていました。

この天皇家の分裂のもとをつくったのは、後鳥羽上皇の孫にあたる後嵯峨天皇でした。後嵯峨天皇は息子の後深草天皇皇位を譲り、自らは上皇として院政を開始しました。

しかし、後嵯峨上皇は、その後に生まれたもう一人の皇子を可愛がるようになり、後嵯峨上皇は彼を天皇にするため、無理やり後深草天皇を退位させ、代わりに後嵯峨上皇は可愛がっていたもう一人の皇子を亀山天皇として即位させた。

しかし、後嵯峨上皇後深草上皇亀山天皇のどちらを院政の後継者にするのかを決めないままに亡くなったため、両者は対立するようになりました。

これ以後、後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)が皇位継承をめぐって争うようになりました。鎌倉時代末期(1270年頃)のことでした。後深草天皇の系統は、持明院統院政をとったので持明院とよばれます。亀山天皇の系統は、亀山天皇の皇子(のちの後宇多天皇)が大覚寺に住んでいたことから大覚寺統と呼ばれるようになりました。持明院統は後に北朝大覚寺統はのちの南朝のもととなりました。

 

この天皇家の分裂を見かねた北条鎌倉幕府は、解決策として両統が交互に天皇を出すように調停を下していました(文保の御和談)。

後醍醐天皇大覚寺統)は、皇太子となっていた邦良親王持明院統)が若死にすると、自分の子である護良親王を皇太子にしたいと考えました。

しかし、鎌倉幕府執権・北条高時はこれを禁止し、持明院統量仁親王(後の第97代後伏見天皇)を皇太子に立てました。

これは持明院統大覚寺統から交互に皇位につく原則にしたがっただけなので、幕府は悪くありません。

しかし、これに後醍醐天皇は非常に腹を立てました。

「皇室の皇位継承に幕府が干渉するのは許すことのできない不遜な行いだ。」

後醍醐天皇は、天皇親政こそが国政の正しい姿だと考え、日本の正統たる天皇の地位を幕府から守るという名分論によって、ついには倒幕計画まで企てるようになりました。

しかし、2度の倒幕計画の失敗の後、ついに後醍醐天皇隠岐(島根)に流されました。

 

やがて足利尊氏らの協力によって幕府が倒されると、京都に戻って建武の親政を行いました。

しかし、後醍醐天皇の公家重視の独裁政治は、武士に不満を買い、その結果、後醍醐政権は、樹立後1年もたたないうちに各地で武士の反乱が相次ぐようになりました。

そんな武家政権の復活を願う武士たちが注目したのは、源氏の名門・足利尊氏でした。尊氏は鎌倉幕府の滅亡の手柄も立て、清和源氏の血を引く尊氏ならば、天皇に対して、武士達の言い分を申し入れることが出来るため、武士達にとっては願ってもない人物でした。

尊氏は決して天皇を追い出して自分が天下を取ろうとする野心家ではなかったが、武士たちの声を無視するわけにもいかなかった。

そこで尊氏は、武家政権を復活のために幕府を開く権利の獲得を急ぎました。しかし、幕府を開くには、朝廷から征夷大将軍に任命される必要がありました。

そんな中、1335(建武2)年、北条時行鎌倉幕府の再興を狙って、関東で挙兵しました。時行は、北条最後の執権・高時の次男であり、武家政治の復活を遂げようしたのです。(中先代の乱

朝廷(後醍醐天皇)より、時行討伐の命を受けた足利尊氏は、鎌倉に兵を出すことになりました。その際に、尊氏は朝廷に「征夷大将軍」の位と東国の管領権を要求しました。

尊氏は、幕府を開く権限と、このとき、すでに対立関係にあった新田義貞の領土をはく奪する権限を求めたのです。

しかし、尊氏の要求は却下されました。

後醍醐天皇にとって、武士など見下すべき存在であり、かつての北条幕府も大嫌いでした。そんな後醍醐天皇が尊氏に「征夷大将軍」の位など与えるはずもありませんでした。

 

そこで、尊氏は自ら「征夷大将軍」を名乗り、勝手に出陣したが、遂に尊氏は天皇の命に背き、一時的に「賊軍」の汚名をかぶることとなったのです。驚くべきは、そんな尊氏の勝手な出陣に、在京武士の半数以上が従い、尊氏軍は強大な兵力として鎌倉に向かったのでした。

そんな尊氏軍にとって時行軍など敵ではなく、時行もあっさりと討ち果たした。

強大な兵力を率いる尊氏に、朝廷はおもねるかのごとく労をねぎらい、京に兵を戻すよう促した。

しかし、尊氏は鎌倉で勝手に論功行賞を始めた。この機会に新田義貞の基盤を奪おうというのだ。東国にあった新田の領地をことごとく部下達に与えたのである。

これを知った新田義貞畿内にある足利方の土地を取り上げたので、義貞と尊氏の対立は決定的なものとなり、源氏の嫡流の二派が争うことになった。

しかし、尊氏はこのままでは天皇に背いた「賊軍」となってしまいます。

その一方で、そんな尊氏に、多くの武士たちが慕っていたことも事実です。それほど武家政権の復活を願う武士が天下に満ちていたのです。

 

一方、京都では、天皇の命により「官軍」となった新田義貞軍が尊氏討伐のため鎌倉に向かいました。

尊氏軍はそれを迎え撃ちます。箱根・竹ノ下の戦いで激突。結果、義貞軍は敗れ去り、尊氏は逆に京都に攻め上りました。

陸奥鎮守府将軍北畠顕家が、奥州に奉じていた義良親王とともに援軍に駆け付け、また楠木正成名和長年も大いに戦いったため、尊氏軍は多くの有能な武将を失い、いったん九州に逃げた。

そこで、尊氏はあることに気づきました。

「やはり、戦争には‘錦の御旗‘が必要である。」

つまり、日本では、天皇を担いで「官軍」として戦わなければ、結局は敗れ去ってしまうということです。

通常の時代情勢であれば、朝敵が官軍となるのは難しい。しかし、このときは簡単だった。皇室が大覚寺統持明院統に分かれているのだから、その一方を持ってくればよい。

尊氏は、重臣赤松円心の助言に従います。

「尊氏殿、ただいま、皇室において不遇をかこっている持明院統を担ぎあげるのが良いでしょう。」

持明院統は、後醍醐天皇による建武の親政以来、政治的にはまったく片隅に置かれ、貧しい恵まれない生活を強いられており、欲求不満が高まっていました。

円心はそこに目をつけたのです。

こうして尊氏は、大覚寺統後醍醐天皇に対抗して、持明院統光厳上皇に使いを送り、自分が官軍であることを示す院宣を賜るように願いでました。

欲求不満を感じていた持明院統は大喜び、さっそく院宣を与えることにしました。

こうして尊氏側も「官軍」となり、後醍醐天皇率いる京都側にとっては非常に厄介な存在が生まれる結果となりました。

こうして後醍醐天皇とはまったく別の新しい光明天皇が誕生し、その光明天皇によって足利尊氏征夷大将軍に任命され、幕府を開く権限を得ることが出来ました。

 

そして湊川の戦いを制した足利軍は、京都を占領し、後醍醐天皇は退位させられ、代わりに光明天皇を即位させました。後醍醐天皇三種の神器光明天皇に渡した後、とらわれの身となりました。建武の親政はわずか3年半で終わりをつげたのでした。

 

1336年11月、後醍醐天皇が位をしりぞくと、足利尊氏は幕府を再建するための基本方針となる「建武式目」を制定しました。前の時代にならって幕府を鎌倉に置くべきか、それとも京都に移すべきかは、もっとも重大な問題でした。武士達のなかには鎌倉を望む者が多くいましたが、鎌倉にうつれば京都を明け渡すことになり、後醍醐天皇がいつ勢いをもりかえすかわかりません。そこで尊氏は京都に幕府を開くことにし、征夷大将軍の任命を受けないまま事実上幕府(室町幕府)を発足させました。

 

ところが、後醍醐天皇は尊氏と和議をむすぶ前にはかりごとをめぐらせていました。皇太子の恒良親王尊良親王新田義貞にあずけて北陸に向かわせ、宗良親王北畠親房にあずけて伊勢国三重県東部)へ、懐良親王は吉野(奈良県吉野町)へと行かせ、ふたたび挙兵しようと企てていました。12月になって、後醍醐天皇はひそかに京都を脱出して吉野に入り、光明天皇に渡した三種の神器はニセモノで、自分こそが本物の神器を持つ正統な天皇だと主張しました。

こうして京都と奈良にふたりの天皇がいて、ふたつの朝廷がならびたつことになりました。ふたつの朝廷の位置関係から、吉野の朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と呼びます。南朝側と北朝側のふたつの勢力は、こののち60年近くにわたって互いに争いました。

この時代を南北朝時代といいます。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社 

読むだけですっきりわかる 日本史   後藤武士=著  宝島社文庫

アナウンサーが読む 山川詳説日本史 

聞くだけ日本史  古代~近世  東京大学受験日本史研究会