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【浄土真宗】親鸞の浄土真宗はなぜ誕生したのか【親鸞】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【浄土真宗親鸞浄土真宗はなぜ誕生したのか【親鸞】」というお話です。 

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の特権階級のひとたちが学び、信仰するものでした。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。

 そんな時勢にあって、積極的に庶民の要求に応じ、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。

 これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 今回は、親鸞をご紹介します。親鸞法然の弟子であり、法然の教えを一層徹底させ、浄土真宗を開きました。しかし、親鸞自身は師である法然の教えを受け継いだだけと考えており、そこから独立して一宗一派を立てる気持ちはありませんでした。

 それならば、なぜ親鸞浄土真宗は誕生したのでしょうか。今回は、それを親鸞の生涯と教えを見ていきながら探っていこうと思います。

法然の弟子となった親鸞は、建永の法難によって流罪となり、法然と引き離されることとなりました。親鸞は罪を赦された後、京都には戻らず、関東で布教活動をしました。その結果、親鸞の教えは急速に普及し、後に浄土真宗という日本最大の宗派が誕生しました。皮肉にも浄土真宗は、法然親鸞が引き離されたことによって誕生したのです。

 親鸞は1173年に京都の下級武士の子として生まれました。それは藤原氏の支流である日野家と呼ばれる家でした。親鸞は9歳で出家し、京都の比叡山で修行をしました。その間に法然のことを知りました。

 比叡山での修行は20年間にも及びましたが、結局、天台宗の教えに確信が持てないことから比叡山を降りた後、1201年、先に比叡山を降り、浄土宗を開いた法然の弟子となりました。

 入門に際しては、様々な葛藤があったようですが、弟子になってからは熱心にその教えを学び、高弟の1人と認められるまでになりました。親鸞の弟子の唯円が著した親鸞の語録『歎異抄』の中に、親鸞は「たとえ法然にだまされて地獄に落ちるようなことがあっても後悔はしない」と言ったとされ、法然を熱烈に支持していました。

 一方で、法然の浄土宗に対する旧仏教からの反発が激しさを増しており、法然専修念仏の教えは、念仏さえ唱えていれば、どんな悪事を働いても往生できるとしているので、社会秩序を乱す非常に危険な教えだとされました。

 また、法然は、お経を読む僧よりも念仏を唱える庶民のほうが救われると説いたため、読経や戒律を重んじる旧仏教の権威を崩そうとしているとも言われました。

 これによって1204年、ついに比叡山延暦寺が専修念仏の停止を訴える「延暦寺奏状」を朝廷に提出しました。これに対して法然は教団の引き締めを行う「七箇条起請文」を宣言しました。

 しかし、1205年には奈良の興福寺が専修念仏の停止を訴える「興福寺奏状」を朝廷に提出しました。

 こうして法然率いる浄土宗が旧仏教勢力から弾圧される中、ついに事件が起きてしまいました。

 1206年12月、後鳥羽上皇が熊野詣に赴いている間に、院の女房達が法然の弟子の住連・遵西の主催した念仏会に参加しました。女房達は遵西らの説法を聞くために彼らを上皇不在の院の御所に招き入れたのです。念仏会は夜遅くまで続いたため、女房らは住連らをそのまま御所に泊めました。女房らの中には出家する者も出ました。

 これに後鳥羽上皇は大激怒しました。女房らを出家させただけでなく、自分の不在中に男性を御所に泊めたことも許しがたいものでした。

 年が明けて1207年2月、上皇は専修念仏の停止を決定。住連・遵西は死罪となり、とばっちりで法然は僧籍を剥奪されたうえ、土佐へ流刑となり、親鸞も僧籍を剥奪のうえ、越後へ流刑となりました。これを建永の法難といいます。

 親鸞は流刑の地で、結婚して子をもうけ、日常生活を営みながら仏教を信仰しました。これは、僧侶とは本来、生涯独身を貫くのが当たり前だった当時の常識からはありえないことでした。親鸞はこうした在家仏教の道を確立した人物でもあるのです。

 1211年、罪を赦された親鸞は、京都には戻らず、関東を中心に布教活動をし、法然の教えをさらに徹底させていきました。

 念仏さえ唱えれば極楽往生できるという専修念仏の教えは、多くの農民や武士たちから支持され、親鸞のまわりには多くの人が集まりました。

 法然の教えをさらに徹底させた親鸞は、阿弥陀仏にすがるしか他に救いのない人々、欲望や悩みを捨てさることのできない人こそ、念仏によって救われるのだという教えを打ち立てました。

 歎異抄の中に、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の有名な言葉あります。これは善人でさえ往生できるだから、悪人が往生できるのは当然だ、という意味です。

 ここでいう善人と悪人は、単に「善い人」、「悪い人」という意味ではありません。親鸞の言う「善人」とは自らの無力さに気づかず、自力で往生のための善行を積むことが出来ると思いあがっているため、せっかくの阿弥陀仏様の救いに頼ろうとしない。

 これに対して「悪人」とは、自分は無力で欲望や悩みを捨て去ることが出来ず、地獄しか行き場のない存在であること自覚しているので、全身全霊をかけて阿弥陀仏様の救いにすがろうとする。そのような者こそが、阿弥陀仏の救いの対象となると説いた。これを悪人正機説といいます。また、この悪人正機説では、武士や猟師など人や生き物を殺してはいけないという戒律を守れない人でも救われるとしました。

 また、親鸞はすべての人間は本質的に悪人であると考えました。救いは、人間側の努力によるものではなく、人間を救おうとする阿弥陀仏様の本願によるものなので、一切の自力を排除し、阿弥陀仏の救いに全てをゆだねることで救いが約束されるのだとしました。

 これは法然の他力本願の教義を発展させた絶対他力といわれる教義です。法然にとって念仏とは、救いのために手段であり、念仏そのものは自力で唱えるとする他力の中の自力でした。

 これに対して、親鸞にとっての念仏とは、阿弥陀仏の救いの約束に対する感謝の気持ちを現したもので、親鸞は、その感謝の気持ちさえも、自分で起こすのではなく、阿弥陀仏が与えてくれるものだと説いた。

 このように阿弥陀仏に全てをゆだねる親鸞の他力の思想は、他力の中の他力の教えだとされる。

 このような、信仰さえすれば、極楽往生は約束されたような親鸞の教えは、多くの農民たちの支持を集めました。

 

 1224年、52歳になった親鸞は、自らの教義を組織体系化した書物として『教行信証』を著しました。この時が浄土真宗の開宗年とされています。

 親鸞の教えが急速に広がるのは、むしろ親鸞の死後で、室町時代蓮如により、関東のみならず、北陸、東海、そして近畿の農民にまで広がり、浄土真宗一向宗)という日本最大の宗派が誕生しました。蓮如は、門戸に親鸞の教えをわかりやすく説いた『御文章』や御文と呼ばれる手紙を人々に配り、浄土真宗の発展に貢献しました。

 浄土宗は、ひたすら念仏し、阿弥陀仏への帰依に勤める一向専修の教えがあるため、浄土宗は一向宗と呼ばれることもあります。

 

 今回は、親鸞の生涯や教えを見ていきながら、親鸞浄土真宗を開いた理由をご紹介しました。親鸞法然の高弟であり、親鸞自身は新たな宗派を生み出すつもりはありませんでした。

 したがって、もし建永の法難が起こらず、流罪となって法然と引き裂かれることがなかったとしたら、親鸞法然の高弟としてその生涯を終えていたことでしょう。とばっちりともいえる法難があったからこそ、皮肉にも浄土真宗は生まれたのです。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社