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【平安仏教2】空海の真言密教をわかりやすく【空海】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【平安仏教2】空海真言密教をわかりやすく【空海】」というお話です。

奈良時代までの仏教は、現代の日本の仏教とは少し違っていました。寺院に一般人が参拝することは出来ませんでしたし、葬式が行われることもありませんでした。

現在見るような仏教は平安時代初期に最澄空海がそれぞれ開いた天台宗真言宗が起源となっています。

平安時代初期、新しい仏教を開いたふたりの僧のうちのひとりは最澄、もう一人が空海です。

774年、讃岐国香川県)の地方豪族の子として生まれた空海は、幼名を真魚(まお)といいました。

15歳になると京に上り、18歳で役人を養成するための教育機関である大学寮での勉学に満足できず、さらに仏教をきわめるため修行の旅に出ます。紀伊半島の吉野(奈良県)の山中や四国の海の断崖絶壁できびしい修行を行いました。

都に戻った空海は24歳のとき『三教指帰』という書物をあらわし、儒教道教、仏教を比べると、仏教がいちばん優れていると主張しました。

804年、31歳になった空海東大寺奈良市)で戒律を授かり、留学僧として唐(中国)に渡ります。このとき、最澄も別の船で唐に渡っています。空海の乗った船は暴風に遭って漂流しますが、なんとか唐にたどり着き、唐の都・長安に向かいました。

空海はいくつかの寺を経て、最終的に青龍寺で修行を行います。やがて唐の僧・恵果から密教を学び、弟子の誰よりも優れていると認められ、密教の秘法を授けられました。

密教はインドで発達した大乗仏教の一派です。「真言」とは言葉では伝えきれない真理のことで、それを修行によって体得する秘密の教えという意味です。密教顕教と対比されます。顕教とは釈迦が人々の理解に合わせて言葉で説いた教えです。

806年、空海は多くの密教の経典を携えて帰国しました。

809年、嵯峨天皇が即位すると、空海嵯峨天皇に気に入られ、厚い信頼を得るようになりました。816年には空海嵯峨天皇から高野山を与えられ、3年後には、真言宗密教をひろめるための金剛峯寺が建立されました。また、823年には京都に東寺を与えられ、密教の道場として弟子を育てました。

密教の本尊は、大日如来という仏です。大日如来とは真理そのものであり、この世のあらゆる物を照らし出す太陽を象徴しています。

空海が開いた真言宗は、三密加持と呼ばれる修行の実践により、即身成仏することを究極の目的としています。

三密加持とは、「身・口・意(しん・くう・い)」とよばれる身体と口と心でなされる3つの修行です。まず手を神秘的で独特なカタチに結び、口で仏の真実の言葉である真言という呪文を唱え、心の中で大日如来を思い浮かべる。これにより、仏の力と修行者の力が一つになり、悟りの境地に至るのです。

即身成仏とは、現に生きているこの身このままで、真理そのものである大日如来と一体化することである。これは、煩悩にまみれた人間は死んだ後でないと仏になれないとする考えとは対照的なものであり、この現実世界を肯定するものです。

 

また、空海は、社会事業にも積極的に取り組んでおり、たびたび水害が起きる故郷の満濃池香川県)の堤防を修復したり、各地に灌漑用の池をつくって農民を助けました。また、828年には京都の庶民のための教育機関として「綜芸種智院」をつくりました。

835年、空海は62歳でその生涯を閉じました。空海はその功績を認められ、朝廷から弘法大師という称号を贈られました。

現在、真言密教では、宇宙の中心にいる大日如来の世界を描いた曼荼羅を用意し、護摩壇(ごまだん)で真言を唱えながら、この世の悩みをあらわす護摩木をたきます。すると、災いをはらい、寿命を延ばし、欲望や憎しみなどあらゆる煩悩を取り除くことが出来るといいます。

以上。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

聴くだけ 倫理   駿台予備校 三平えり子=著 Gakken

図解 眠れなくなるほど面白い 仏教 渋谷申博=著  日本文芸社