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【浄土信仰】なぜ平安貴族は末法思想を恐れたのか【藤原頼道】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【浄土信仰】なぜ平安貴族は末法思想を恐れたのか【藤原頼道】」というお話です。

 平安時代中期(摂関時代)の仏教は、天台宗真言宗の2宗が大変な勢力を持っており、加持祈祷を通じて現世利益をもとめる貴族層に浸透していきました。

 そんな現世利益を求める様々な信仰と並んで、現世の不安から逃れようとする浄土教も流行してきました。

 浄土教とは、「この世」ではなく、「来世」で安楽な生活を送ることを願う考え方です。「来世」とは死後の世界のことで阿弥陀仏様の存在する極楽浄土に行きたいと願う信仰のことで、この信仰のことを浄土信仰といいます。

 平安時代中期(10世紀前半)頃から、都では疫病が流行り、天災や飢饉が起こり、内裏や市街にたびたび火事が起き、盗賊が横行するなどの社会が荒れ放題となり、人々を不安にさせました。

このような不安定な社会情勢の中、人々の間には末法思想が流行しました。

 末法とは仏教の歴史観に基づく言葉です。釈迦の死後、正法、像法、末法という三3の時代が段階的に来るとされており、釈迦の死後、しばらくは教えが守られ、悟りを得る者も出ますが、やがて修行をしても悟りを得られなくなり、ついには修行する者もいなくなり、ただ教えのみが残る時代が訪れます。この3期を正法・像法・末法というのです。

 末法の世になると、人の質が悪くなり、犯罪が増え、災害が頻発するとして人々恐れられていました。

 平安貴族たちが末法を恐れた理由は、こうした災厄が己の身にも及ぶことを恐れたためで、来世で地獄に落ちることへの不安がありました。地獄といえば、天台宗の僧侶である源信が著書『往生要集』の中で浄土(天国)と地獄の存在が記しており、地獄の悲惨な描写を克明に描かれていました。

 平安貴族は、この源信を尊敬してその書を読み、浄土を求める気持ちを掻き立てられました。

 そんな平安貴族たちは、その豊かな財力を使って寺院を建て、仏像を造り、写経を埋納し、念仏をし、熊野詣へ行くなど様々な功徳(善行)を積み、極楽に往生することを願いました。

藤原摂関家でおなじみの藤原道長は、都に法成寺を建立して阿弥陀仏を拝み、金剛山の金剛神社には自ら書写した写経を埋納し、極楽往生を願いました。

 さらに、末法の1年目とされる1052年には関白・藤原頼道が、父の藤原道長から受け継いだ宇治(京都府宇治市)の別荘を寺院に改め、平等院と名付けました。翌1053年には、本堂の阿弥陀堂が完成し、本尊の阿弥陀如来像が安置されました。阿弥陀如来像は、仏像の大量生産が可能な寄木造の手法を完成させた定朝の作品です。阿弥陀堂の屋根には、鳳凰という空想上のめでたいとされる鳥の飾りがあることから、鳳凰堂ともよばれました。

 そんな阿弥陀堂は極楽の宮殿をこの世にあらわしたようだということで当時は以下の歌が流行しました。

「極楽いぶかしくば、宇治の御堂を敬うべし」

(極楽がどんなところかしりたければ、平等院にお参りしなさい)

 父の道長が都に法成寺を建立して阿弥陀仏を拝んだように、頼道も平等院を建て、阿弥陀如来坐像をつくることで功徳(善行)をつみ、極楽に往生することを願ったのでした。

 しかし、これらの形骸化した功徳をいくら積んでも、肝心の御利益に関してはどれほど期待できるのかは非常に怪しいものでした。貴族たちは豊かな財力を投じ、阿弥陀如来が連れて行ってくれるという極楽浄土へ往生することを願いましたが、これをやれば確実というものはなく、不安は増すばかりでした。

 確実な方法としては、平安中期の僧・空也阿弥陀仏様のその名を唱える称名念仏によって極楽往生を確かなものにする念仏信仰がすでにありました。しかし、空也のこの教えが人々に認知されるのは、鎌倉時代以降のことです。

 平安貴族たちも、こうした確実に極楽往生する方法を知っていたら、末法を恐れずに済んだでしょう。

以上。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

参考文献

聞くだけ 日本史   東京大学受験日本史研究会   Gakken

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken