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【時宗】なぜ一遍は踊り念仏を始めたのか【一遍】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【時宗】なぜ一遍は踊り念仏を始めたのか【一遍】」というテーマのお話です。

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の階級のひとたちが学び、信仰するものでした。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。

 そんな時勢にあって、積極的に庶民の要求に応じ、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。

 これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 一遍を開祖とする時宗は、法然により広められた専修念仏の流れを汲む宗派ですが、踊り念仏をすることに特徴があります。この踊り念仏は、現在の盆踊りの起源でもありますが、一遍は最初から踊り念仏をしていたわけではありません。なぜ一遍は踊り念仏を始めたのでしょうか。今回はそれを探っていこうと思います。

一遍は、家や土地、妻子などあらゆる地位や財産を捨てました。自分の中の執着やこだわりを捨て去った一遍は悟りの境地に至り、その嬉しさのあまり踊り始めてしまいました。一遍は踊念仏をしながら全国を遊行して歩き、布教対象を下層階級にまで広げました。

 一遍は1239年、伊予国愛媛県)の武士の子として生まれました。10歳のときに母親を亡くし、父親の命で出家し、浄土宗の寺院で修行を始めました。しかし、一遍が25歳のときに父親が亡くなったことで故郷に戻りました。

 故郷で妻子をもった一遍は、半僧半俗の生活をしました。つまり、日常生活を送りながら、仏教の信仰をする在家仏教の道を歩んだのです。

 しかし、一遍が33歳のときに善行寺を詣でたのをきっかけに再び浄土宗の修行者に戻りました。当初は庵(いおり)で念仏を唱える在家仏教の生活をしていたが、36歳からは全国を股にかけた遊行の旅に出かけます。このとき、出家した妻子も連れていたようです。当初、一遍が行く先々で行っていたのは、「南無阿弥陀仏」と記した念仏札を人々に配ることでした。一遍の札を受け取った者は往生の証を得るとされました。

 

 その旅の途中、一遍は自分の布教方法に疑問を抱く出来事に遭遇しました。

 一遍は、ある僧に札を渡そうとすると、その僧は「信心がないから受け取れない」と言いました。一遍は何とかしてこの僧に札を渡さないと、その場にいた全ての人に札を配れないと思い、半ば強引に札を渡してしまったのです。

 そんなとき、一遍は訪れた熊野本宮で「信心の有無や、身分の上下に関わらず、全ての人は念仏を唱えさえすれば往生できるのだから、堂々と札を配りなさい」との宣託を受けたことで立ち直り、浄土宗の他力本願の深意を知りました。時宗ではこの時をもって開宗年としています。1274年、一遍が36歳のときでした。

 翌1273年、自身の信仰に確信を持った一遍は、妻子とも別れ、土地も家も捨てて、旅を続けました。旅の途中で同行者も現れ、彼らは時衆と呼ばれました。

 そして、1279年の秋、信州国(長野県)の小田切の里の武家の館で、一遍のその同行者が念仏往生への嬉しさのあまり踊りはじめました。これが踊り念仏の始まりです。

 一遍によると、踊り念仏とは喜びと感謝の気持ちを体現したものだとしました。浄土宗では念仏を唱えた者は誰でも極楽浄土に迎えられます。それは阿弥陀仏様が誓願してくれたからであり、そのおかげで我々は念仏を唱えるだけで往生ができるようになりました。その報恩行為として最高なのが踊りだとしました。

一遍はその気持ちを歌に詠んでいます。

ともはねよ かくても踊れ 心ごま

弥陀の御法を 聞くぞうれしき

(共に跳ねよう、そのままで踊れ、心のままに阿弥陀仏の教え知ったことがこんなに嬉しいのだから)

 

 一遍の踊念仏は、旅の行く先々で熱く迎えられました。一遍とその同行者たちは踊屋という舞台の上にたち、鉦(楽器)や太鼓を叩き、リズムに合わせて踊りました。舞台を見上げる人々のなかには、手を合わせて拝む人もいました。一遍は、踊りを見物した人々に「南無阿弥陀仏」の札を配り往生の証を与えました。札は老若男女・信心の有無を問わず、多くの人々に配られ、その布教対象は、下層階級にまで広がりました。

以来、踊り念仏は全国各地で行われるようになりました。

 

 1282年、一遍は踊念仏を広めるために鎌倉にやってきました。しかし、鎌倉幕府は一遍が鎌倉に入るのを許しませんでした。そこで、一遍は鎌倉の西の片瀬の浜で踊り念仏を行ったところ、多くの人々が押し寄せ、大盛況となりました。

 こうして一遍の名は広く知られるようになり、一遍は死ぬまで旅を続け、踊り念仏を広げました。その功績は、南は大隅国(鹿児島県)、北は江差国(岩手県)にまで及び、配られた札は、250万に達したといわれています。

 そして、1289年、一遍は臨終の際に、「煩悩があっては極楽に往生は出来ないので、常にこの一瞬一瞬を臨終のときと心得て、煩悩が生じないように念仏を唱えよ」と説きました。享年51歳でした。

 さて、今回のまとめですが、一遍は、地位も財産も妻子も捨てたことで、自らの執着心から解き放たれ、悟りの境地に至ることが出来ました。一遍は、ここに阿弥陀仏の救いを感じとり、その嬉しさのあまり踊り始めました。踊念仏とは、その報恩行為だったのです。

 背負うことも、失うもこともなくなった一遍が全国遊行をしたことで、布教対象を下層階級にまで広げることができました。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社