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【日蓮宗】なぜ日蓮は進んで迫害・弾圧を受けたのか【日蓮】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【日蓮宗】なぜ日蓮は進んで迫害・弾圧を受けたのか【日蓮】」というお話です。

 平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の階級のひとたちが学び、信仰するものでした。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。

 そんな時勢にあって、積極的に庶民の要求に応じ、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。

 これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。

 今回は、日蓮日蓮宗をご紹介します。日蓮の生涯は弾圧と迫害の繰り返しでした。しかし、日蓮は自ら望んで弾圧や迫害を受けていた節があります。ということで、今回は日蓮の生涯と教えを見ていきながら、なぜ日蓮は進んで迫害を受けたのかについてみていきたいと思います。

日蓮は、末法の世を救えるのは、『法華経』の教えのみだとしました。一方で日蓮は、他宗派を批判し、それを逆恨みした者には命を狙われ、治安を乱す者と見なした幕府からは流罪にされるなど度重なる迫害と弾圧に遭いました。しかし、日蓮は「法華経を信じ広めようとする者は必ず迫害や弾圧に遭う」という法華経の教えから、苦難に遭うたびに、自分こそが真の法華経の行者であるという自覚を強めることが出来たのでした。

 日蓮は、1222年に安房国(千葉県南部)の武士の子に生まれたとされています。出家後は各地を修行してまわり、やがて法華経を知り、比叡山天台密教を11年間学びました。

 日蓮はたくさんの経典に触れる中で、釈迦の本当の教えを正確に解釈しているのは、法華経だけであり、末法の世を救える唯一の教えだという確信に至り、比叡山をあとにしました。

 そして1253年、日蓮が31歳のときに清澄寺(千葉県鴨川市)で初めて「南無妙法蓮華経」と唱えました。「南無」は「帰依する」という意味で、妙法蓮華経は『法華経』の尊称なので、「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」という意味です。日蓮宗では、この年を開宗年としています。

 法然親鸞などの浄土宗では、末法の世では、人々は現世利益を得ることは出来ず、ひたすら念仏を唱え、極楽往生阿弥陀仏のはからいに任せるとしていました。

 これに対し、日蓮末法の世であっても、人々は現世利益を得て成仏することが出来るとし、そのための唯一の方法は、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることであり、その結果、個人だけでなく、この世界をも救うことが出来ると説きました。

 また、日蓮を除くほかの鎌倉新仏教の各宗派では、専ら個人の救済に焦点が当たっているのに対し、日蓮の教えは、個人だけでなく、国家や社会全体をも救済しようとする点に大きな特徴があります。

 このように日蓮の教えの中心は、法華経主義にあり、「法華経を信じて『南無妙法蓮華経』と唱えれば、人間は現世で仏となることが出来る。そして、一国すべての人間が法華経を信仰したとき、理想国家(仏国土)が誕生するのだ。」としました。

 これが日蓮の願いであり、日蓮法華宗を重視した理由でもあります。

 法華宗には、すべての人は悟りを開くことが出来るという一乗思想と、久遠実成の仏への帰依が説かれています。

 久遠実成とは、遠い昔に、実際に仏となった存在のことで、法華経では、この存在のことを釈迦と定義しています。釈迦は人間の姿を仮の姿として、かつてこの世に現れ、教えを説きました。したがって、この現実世界は釈迦と特別な絆で結ばれており、この世界こそが釈迦の仏国土なのです。これに「南無妙法蓮華経」の文字には釈迦の功徳が全て備わっているため、「法華経」を信じてこれを唱える者すべてに成仏が約束されるという一乗思想が加わるのです。

 一方で日蓮は、間違った考えが広まっている国には禍(わざわい)が起きると説き、他の宗派を激しく非難しました。例えば、阿弥陀仏の住む極楽浄土は、この現実世界とは無関係な世界であり、死後の極楽往生を願う浄土宗は無意味な教えとして批判しました。

 日蓮が他宗派を批判した言葉に、四箇格言というものがあります。四箇格言とは「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」というもので、念仏は無間地獄に陥り、禅は悪魔の成せる所業であり、真言宗など信仰していると国が亡び、律宗を信仰する者は国を滅ぼそうとする国賊だ、としました。

 ところで、日蓮法華経を根本経典としている天台宗に対しては批判をしていないことに注意しておいてください。

 

 こうして他宗派を批判した日蓮は、それを逆恨みした者や幕府からの厳しい弾圧や迫害を受けることになります。

 日蓮が生涯で受けた大きな弾圧は4回あります。

 1回目は、日蓮が鎌倉に拠点を置き、その教えを説いてまわっているときに起きました。1260年、鎌倉の松葉ヶ谷にあった日蓮の草庵が、暴徒に襲われ、焼き払われてしまったのです。これを松葉ヶ谷法難といいます。

 2回目は、1261年に日蓮鎌倉幕府5代執権・北条時頼に『立正安国論』を上呈したときです。『立正安国論』とは日蓮の主著であり、その中には「幕府が『法華経』を唯一正しい仏法と認め、他の宗派を退けない限り、地震や飢饉、疫病などの災害が起き、ついには外国からの侵略を受けるだろう」と書かれていました。

 この日蓮の主張は、他宗派の多くの反感を買い、幕府も日蓮の排他的な思想は治安を乱す原因だとして逮捕のうえ、伊豆へ流罪としました。その伊豆への移送中、日蓮岩礁に置き去りにされたそうです。

 

 その後も日蓮は弾圧を受け続け、3回目の弾圧は1264年、日蓮が故郷の安房国に帰省した際、地頭の東条景信の軍に襲撃され、弟子2人が死亡。日蓮も負傷した事件です。これは小松原法難と言われています。

 それでもなお、日蓮は持論を曲げなかったため、再び幕府に逮捕され、佐渡へ流されました。その移送途中の瀧口で日蓮は処刑されそうになるも、そこに「輝くもの」が現れ、処刑は中止されたそうです。これは龍口法難といわれ、4回目の弾圧となりました。

 

 こうした度重なる弾圧や迫害を受けながらも、日蓮はついに持論を曲げることはなく、罪を赦されて、ようやく甲斐国山梨県)の身延山に隠棲したときには、53歳になっていました。以降、日蓮は弟子を指導しながら平穏な日々を送り、1282年に60歳で死去しました。

 それにしても、なぜ日蓮は弾圧や迫害を受け続けたのでしょうか。

 実は『法華経』の経典の中には、「法華経を信じて広めようとする者は必ず迫害や弾圧に遭う」と説かれています。日蓮が進んで迫害や弾圧を受けた理由はここにあります。それゆえに、日蓮はそうした苦難に遭うたびに、自分こそが真の法華経の行者であるという自覚を強めようとしたのです。

 

 幕府は日蓮の教えを受け入れず、逆に弾圧を強めたが、その後も飢饉などの天災が続き、ついには蒙古襲来という外国から侵略を受け、日蓮の予言が的中したとみなされ、支持者は急速に増えていきました。

 そして、日蓮の教えは日蓮宗法華宗)と呼ばれ、商工業者や地方武士を中心に広がっていきました。

 

 日蓮が、当時勢力を持っていた既成仏教や新興仏教に対し「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」などのあからさまな批判が出来たのも、権力者である幕府に対しても強気な姿勢で批判が出来たのも、迫害される者こそ正しく、その真理はやがて現実となるという強い信念が日蓮にあったからなのだと思われます。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

聞くだけ  倫理   三平えり子=著     Gakken

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社