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【摂関政治3】藤原道長の栄華の秘密とは?【藤原道長】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【摂関政治3】藤原道長の栄華の秘密とは?【藤原道長】」というお話です。

 藤原道長といえば、平安時代を代表する政治家ですが、摂関政治の全盛期を築き上げた人物です。

 そんな道長の歌に以下のようなものがあります。非常に有名な歌なので、御存じの方も多いでしょう。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」

 大変な自信と誇りに満ちた歌のように感じられますが、道長が自らを「欠けることのない満月」と豪語しえたのは、一体何が根拠としてあったのでしょうか。

 今回は、そんな道長の生涯をストーリーとして展開しながら、彼の栄華の秘密に迫ってみたいと思います。

藤原道長は5男という不利な立場として生まれながら、父の遅い出世や兄たちの早世という強運に恵まれ、さらに自分の三人の娘を次々と天皇に嫁がせ、外戚として権力を確立。莫大な荘園も寄進され、その人生はまさに「欠けることのない満月」そのものでした。

 966年、藤原道長は、摂関家の名門である藤原氏北家の流れをつぐ藤原兼家の子として生まれました。しかし、兄には道隆と道兼、姉には超子と詮子がおり、兄が二人もいるゆえ、道長は普通なら実権を握るのは困難でした。

 さらに、道長が生まれた当初、父・兼家は38歳にして朝廷ではパッとしない地位でした。というのも、兼家は三男であり、長男は急死しても、次男・兼道と後継者を争うも敗れ、兼道が関白となったため、兼家は長く不遇の時代を過ごしてきたのです。

 しかし、兼道の病死によって状況はガラリと変わりました。兄の死により、冷遇されていた兼家がその恨みを晴らすかのように次々に我が子を要職に引っ張り上げていったのです。

 まず、兼家の娘たちが天皇中宮となっていきました。超子は冷泉天皇(第63代)に嫁ぎ、三条天皇を生み、詮子は円融天皇(第64代)に嫁ぎ、一条天皇を生みました。

 

 そして、978年、父・兼家が右大臣に昇格しました。

 さらに986年には、兼家は花山天皇(第65代)を策略によって退位させ、代わりに娘・詮子の産んだ一条天皇(第66代)を即位させました。一条天皇はまだ7歳でしたので、兼家は摂政となって朝廷の実権を握ることに成功しました。

 これによって兼家の息子たちは次々と昇進していき、道長も988年に23歳で権中納言となり、公卿の仲間入りを果たしました。

 このときすでに兄たちはそれなりの年になっている中、道長はまだ23歳。出世の階段を上るには記録的な好スタートでした。父・兼家の遅い出世が5男の立場にある道長には有利に働いたのです。

 道長もたくさんの子供をもうけ、長女・彰子、次女・妍子、三女・威子、四女・嬉子、そして男子には後に宇治関白とよばれる頼道がいました。道長は将来的に娘たちを天皇の妻にさせるために、長女・彰子に紫式部という家庭教師をつけ、高い教養を身に着けさせました。

 

 990年、関白となった兼家は病を理由に道長の兄・道隆に関白を譲りました。道隆は娘・定子を一条天皇に嫁がせており、息子の伊周を内大臣(大臣の補佐役)に任命するなど道隆一家の全盛期を築いており、道長の活躍の余地はなくなってしまいました。

 ところが、995年に道隆が病魔におかされて亡くなります。弟の道兼が後を継ぎますが道兼も疫病で急死します。

 次の関白になるのは、内大臣の伊周か、権納言の道長でした。

 一条天皇を生んだ道長の姉・詮子は、道長を関白にすることを天皇に強くすすめたので、道長に、関白に準ずる内覧の宣旨(天皇の命令文書)がおりました。

 五男に生まれた道長でしたが、兄たちの早死によって30歳で政治の中心にたち、間もなく右大臣になりました。

 996年、道長との争いに敗れた伊周が、花山法皇(出家した天皇)に矢をかけるという事件を起こし、また道長や詮子を呪っているという密告が入ったため、伊周は流罪となりました。

 その後、道長は31歳で左大臣となりました。この時点で道長の地位は安泰でしたが、それでは満足せずに、12歳の娘・彰子を一条天皇に嫁がせました。しかし、2人のあいだには中々子供が生まれず、道長も諦めかけていました。

 しかし、道長が39歳のとき、彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を身ごもったのです。この知らせを聞いた道長も大喜びでした。

 1011年、一条天皇が32歳の若さで亡くなると、従兄弟の三条天皇(第67代)が即位しました。

 しかし、この三条天皇道長は互いにうまくいきませんでした。道長三条天皇に17歳の次女・妍子を嫁がせていまいたが、2人にはいつまで経っても子供が生まれませんでした。

 そうなると、道長としては一条天皇と彰子の子である敦成親王を次の天皇に据えたくてたまらなくなる。

 しかし、三条天皇一条天皇より4歳年上であったことからようやく天皇になったことで自ら政治を行えると思っていました。期待値が大きかった分、道長の存在は三条天皇にとっても邪魔なものでした。

 三条天皇は日記に道長への愚痴をしたためています。

道長は大変無礼きわまりない。食事も喉を通らず、眠れぬときがあり、不安でしょうがない」

 三条天皇天皇の立場でありながら、面と向かって文句すらいえないほど道長の権力と威圧感は相当なものだったのでしょう。

 そんな牽制し合う三条天皇道長でしたが、1016年、三条天皇が目を患ってしまいます。道長はここぞとばかりに三条天皇の視力の衰えを理由に退位させ、彰子の産んだ9歳の皇子を後一条天皇(第68代)として即位させ、摂政となりました。

 さらに道長太政大臣へと昇進し、後一条天皇元服の儀式をとり行いました。

 こうして天皇をも凌駕する強大な権力を握った道長でしたが、道長の強大さは権力だけでなく、財力も強大でした。道長のもとには、莫大ともいえる荘園が寄進されており、そこからの収入が藤原摂関家の華やかな生活を支えていました。

 その背景を少しだけ見てみましょう。

 10世紀後半、郡司や開発領主たちの中には国司の圧迫から逃れ、開墾して広げた私有地を保護してもらうために中央の貴族や大寺社に土地を寄進していました。

 荘園の寄進を受けた中央の有力貴族や大寺社は、名目上の所有者として荘園領主(領家)となりましたが、その荘園をさらに上の貴族や皇族に寄進して上級領主(本家)となってもらいました。特に藤原摂関家には多くの土地が寄進されました。摂関家国司などの役人の任免権もあずかっていたため、中央貴族の中には良い地位を求めて、藤原氏に取り入ろうとする者が多かったのです。道長としても勝手に土地が転がり込んでくるのだから、笑いが止まらなかったでしょう。

 そして1018年10月16日は道長の生涯最良の日となりました。道長の三女・威子が後一条天皇に嫁いだからです。

その夜の祝宴パーティー道長は‘あの歌‘を詠みました。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」

道長は権力と財力において頂点にたったのです。

 こうして帝王のように振る舞った道長でしたが、晩年は健康に恵まれず、糖尿病に苦しんでおり、1019年に出家しました。

 道長は晩年、法成寺という壮麗な寺院を建立して阿弥陀仏を拝み、金剛山の金剛神社には自ら書写した写経を埋納し、極楽往生を願いました。

 そして1027年、道長は法成寺阿弥陀堂で極楽浄土を願いながら62年の生涯を閉じました。

 今回は、道長の栄華の秘密についてみていきましたが、道長とは5男という不利な立場に生まれながら、娘たちを巧みに使い、絶対的な権力を手にし、天皇さえも逆らえないほどの絶大な権力を獲得した人物でした。そこには、単なる運だけでは成しえない、彼の権力獲得に対する努力と執念があったようです。

 その姿はまさに「欠けることのない望月」そのものといえるでしょう。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代    ポプラ社

本当は怖い「平安京」観光案内 京都の闇  関裕二  講談社

暴君の素顔   山口智司=著   彩図社

聞くだけで一気にわかる日本史  馬屋原吉博=著 アスコム

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

読むだけですっきりわかる  日本史  後藤武士=著 宝島社出版