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【蒙古襲来1】なぜ元軍は日本に攻めてきたのか【フビライ=ハン】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【蒙古襲来1】なぜ元軍は日本に攻めてきたのか【フビライ=ハン】」というお話です。

 

モンゴルといえば、現在は中国の北側にある人口320万人程度の弱小国です。

しかし、13世紀の頃のモンゴル帝国は、世界史上最も広い領地を持つ国として君臨していました。その記録は、現在も塗り替わっていません。

そんなモンゴル帝国(蒙古ともいう)は、鎌倉時代の日本にも侵攻してきており、集団戦法や火器や毒矢などの新兵器によって、鎌倉武士を圧倒しました。

今回は、蒙古襲来の1回目ということで、そんなモンゴルの歴史について見ていきましょう。

 

12世紀後半、モンゴル高原に現れたチンギス=ハンは、高原を平定すると、瞬く間に騎馬を使って殺戮を繰り返しながら、ユーラシア大陸を西へ西へと遠征し、1202年には、中央アジアから北西インドにまで支配領域を一代で築いてしまいました。

 

なぜ、短期間のうちに勢力拡大が出来たのでしょうか。

 

モンゴルにはもともと遊牧民族が住んでいました。遊牧民族とは、農耕民族とは違い、一箇所に定住することなく、羊や馬を飼い、そのエサである草原を求めて移動し、移動先で狩りをしたり、家畜を殺して食べたりしながら生活している民族のことです。

当時の最強戦法は、騎馬による機動力を生かした戦法でしたので、普段から馬に乗って狩りをしていた彼らため、戦には強かった。つまり、自分達の生活習慣と戦法が結びついたことで、最強の戦闘部隊を作ることに成功したのです。

1234年、チンギス=ハンの子・オゴタイ=ハンの時代には、ヨーロッパ遠征も行われ、ついには、ヨーロッパの一部をも支配領域とし、首都カラコルムモンゴル高原中央部・現在のウランバートルの付近)もつくられ、ここにアジアからヨーロッパにまたがる未曾有の大帝国・モンゴル帝国が誕生したのでした。

モンゴル帝国が建設されたことで、それまで国境によって妨げられていた東西の交流がさかんになりました。旅行者や商人は危険をおかすことなく西から東へ、東から西へと行き来でするようになり、経済活動や文化の行き来が活発になりました。貿易都市として栄えたイタリアのベネツィアの商人の息子であるマルコ・ポーロが、中国への旅行を成し遂げられたのも、こうした時代に生まれたからです。

 

しかし、モンゴル民族は均分相続が行われており、親が亡くなると、その領土は子供達が分け合います。したがって、チンギス=ハンの子供、さらにその子供と世代が進むにしたがって、領地は細切れになっていくのです。

1260年に、チンギス=ハンの孫・フビライ=ハンが即位する頃には、モンゴル帝国内部で帝位と均分相続をめぐる対立が表面化し、その結果、モンゴル帝国ユーラシア大陸の各地を4つのハン国に分割される結果となりました。

中央アジアチャガタイ=ハン国、南ロシアのキプチャク=ハン国、西アジアイル=ハン国、そして東アジアのフビライ=ハン国です。

一方で、これらの国々は互いに道路を整えて東西の交通整備に力を入れ、国境を超えた経済活動の活発化を図りました。

なかでも、宗家であるフビライ=ハンは都をカラコルムから大都(現在の北京)に移して、1271年に国名を「元」と改め、火薬や羅針盤・印刷技術などを西方に伝え、西方からはイスラム文化キリスト教宣教師を受け入れました。

そんな中、17歳になったマルコ=ポーロがローマ教皇の新書を携えて、元を訪れ、フビライに17年間仕えました。マルコは帰国後、この経験を『世界の記述(東方見聞録)』としてまとめ、日本を「黄金の国ジパング」として紹介しました。これによって、ヨーロッパの人々のアジアに対する思いをかきたてることになり、後の帝国主義の時代でアジアは植民地の対象となるのです。

 

さて、均分相続によって、本来手に入るはずだった広大な領土を縮小化してしまったことに不満を感じていたフビライは、中国大陸を含めた東アジア全域の支配に強い意欲を持っていました。

そんなフビライは、宋(南宋)への侵略を進めるとともに、朝鮮半島の高麗にも服属を要求し、やがて、その触手を日本にも伸ばすようになりました。

この頃の日本は鎌倉時代で、12世紀末に成立した鎌倉幕府は1221年の承久の乱に勝利後、北条氏による執権政治が展開されていました。

1268(文永5)年、フビライは朝鮮を通じて日本に国書を送りました。フビライはすぐに返事が来るものと思っていたようですが、中々返事が返ってきませんでした。

幕府では1263年に北条時頼がなくなった後、その子である時宗がまだ13歳と若かったため、一門の長老・北条政村が執権についていました。しかし、この非常事態に立ち向かうため、18歳になった時宗が次の執権につくことになりました。

フビライは、その後も使者を次々に日本に遣わしたにも関わらず、時宗は元からの度重なる服属要求を拒み続けたため、怒ったフビライは、ついに日本に攻め込むことを決意しました。

これが日本でいう「文永の役」ですが、当初は日本を屈服させるというよりも、偵察や威嚇が目的だったとされています。

 

当初、フビライは日本に友好的な国書を送り、平和的な国交の樹立を目指していたとされています。フビライの目的は南宋の屈服であって、南宋に宣戦布告する一方で、日本を味方にして南宋を孤立させようとしたのだとされています。

そんな友好的な国書を日本が侵略目的であると過剰反応したために、元は軍隊を派遣し、力ずくで屈服させるしかなかったといいます。

しかし、結局は一方的に武力を持って攻めてきている以上、フビライは最初から友好的・平和的だったとは考えにくい。しかも、本来の目的であった南宋を滅ぼした後に、日本へ2度目の派兵をしています。

国書を送ったのも、海という自然の要塞に囲まれた日本を、軍隊を派遣することなく、屈服を完了させたかったからなのではないでしょうか。国書の内容も無礼かつ脅迫的なものだったようです。

元の日本侵攻は、フビライの果て無き領土欲求によってもたらされたとみるのが妥当なのではないでしょうか。

皆さんは、どう思われます?

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

早わかり  日本史   河合敦=著   日本実業出版

教科書よりやさしい世界史     旺文社=編