【南北朝文化】和歌から連歌へ
こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【南北朝文化】和歌から連歌へ」というテーマでお送りしたいと思います。
奈良時代にはじまった和歌は、鎌倉時代でも盛んで、その栄華を極めました。歌会が多く開かれ、後鳥羽上皇は勅撰和歌集として『新古今和歌集』の編纂を命じました。
さらに、その撰者の1人である藤原定家が『小倉百人一首』を選び、鎌倉幕府3代将軍の源実朝による『金塊和歌集』も作られ、多くの歌論も生まれるなどしたが、和歌は次第に衰退していきました。
南北朝時代という動乱期に、和歌に代わって盛んに詠まれるようになったのは連歌でした。
連歌とは、和歌の上(かみ)の句の5・7・5(長句)と、下(しも)の句の7・7(短句)をふたりで分けてつくることから始まりました。やがて、何人かの人が長句と短句を交互に10句、20句と詠み継いでいく形へと発展し、鎌倉時代には100句つづけるのが正式な形となりました。
しかし、連歌が長くなると、発想や言葉づかいが同じになって、変化に乏しくなります。そのため、100句の流れが美しく構成されるような約束事(式目)がしだいに整えられ、それにしたがって詠むようになりました。
のちに連歌は、文芸としての活力を失っていきますが、連歌がもとになって、江戸時代には俳諧が生まれます。
連歌は当初、武士や庶民のあいだで盛んに行われるようになりました。鎌倉時代から南北朝時代にかけて強くたくましく成長してきた武士や庶民のあいだでは、身分や職業に関係なく、ともに楽しむ文化や芸能が盛んになりました。
文学の世界では、人々が寄り合って、和歌の上の句と下の句をかわるがわるに詠み続けていく連歌が流行しました。
武士のあいだでは連歌会がさかんに催され、武家屋敷には人々が寄り集まるための会所とよばれる部屋が設けられ、酒宴とともに連歌が楽しまれました。
庶民のあいだでは、寺社の祭礼のときなどに、境内の桜の木のもとに集まって連歌を詠む「花のもと連歌」が催され、春の風物詩ともなりました。参加者は良い歌をひねり出そうと考えこみました。
室町時代に入ると、連歌は貴族層にも浸透していきました。京都の北野天満宮をはじめとする各地の天満宮では、連歌の神とされた天神(菅原道真)にささげる連歌会が催されました。
連歌は、考え出された句の優劣を、金品を賭けて競う遊びでもありました。句の優劣を判定して点数をつける人を点者(てんじゃ)といいました。
各地で行われた賭け連歌会には、連歌を専門につくる連歌師が点者として招かれました。連歌師は人気ある職業で、「点者にならない者はいない」と皮肉られるほどでした。
連歌を愛好した公家の二条良基は、連歌師を優遇するとともに、すぐれた連歌を集めて20巻からなる『菟玖波集(つくばしゅう)』をまとめました。これによって、連歌の地位は高まり、和歌から独立した新しい文化となりました。
一方で、連歌とともに一般に広がったのは、お茶でした。お茶は当初、寺などで薬用に使われていましたが、南北朝期には茶寄会(茶会)がさかんに行われるようになりました。お茶を飲む風習はやがて茶道にまで発展しますが、当時は数種類のお茶を飲み比べて種類をあてる闘茶と呼ばれる遊びで、連歌と同様に金品をかけて行われました。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
中学 見て学ぶ 国語 受験研究社