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【日明貿易】倭寇と呼ばれた人々の正体とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【日明貿易倭寇と呼ばれた人々の正体とは?」というテーマでお伝えしたいと思います。

 倭寇とは、「倭」と「寇」の合成語ですが、「倭」とは日本人のこと、「寇」とは大挙して襲来する海賊のことです。つまり、倭寇とは「日本人の海賊」という意味です。

 しかし、彼らは必ずしも日本人だけで構成されているわけではありませんでした。

 

 14世紀、朝鮮半島や中国の沿岸部の人々は、船に乗って来攻し、略奪を繰り返す海賊集団のことを倭寇と呼んで恐れていました。

 なかには400~500もの船を従え、1000を超える兵士を集めた強大な集団もあり、彼らはたびたび海から人家に乱入しては米穀を奪い、男女の別なく住民を連れ去りました。連れ去られた人たちは、奴隷として酷使され、あるいは高値で売り払われるのです。

 高麗(後の朝鮮)明国(中国大陸)の政府は、軍を派遣して倭寇の討伐を試みるも、機動力のある奴らは、いつどこに現れるのかを予測しにくく、その鎮圧はスムーズにはいきませんでした。そのうち、被害は沿岸部ばかりでなく内陸部にまで拡大し、税として徴収した米を蓄えておく倉庫までもが狙われました。

 

 そんな倭寇にたまりかねた高麗と明国はそれぞれの対策を講じました。

 まず、高麗ですが、高麗政府は、1367年に室町幕府に使者を送り、倭寇を取り締まってもらうよう求めました。しかし、この頃の日本は南北朝の動乱が収まっておらず、幕府は高麗の要求に応えることができませんでした。そこで高麗政府は、倭寇に強い影響力をもつ九州探題今川了俊や、周防国山口県東部)の大内義弘、対馬国長崎県対馬)の宗氏など西国の大名らに協力を求めました。その結果、倭寇に対抗できる機動力と軍事力が整えられ、倭寇を討ち滅ぼそうとしました。

 倭寇との戦いで功績をあげ、信頼を得ていたのが李成桂(イソンゲ)でした。彼は、高麗王に代わって国王の位につき、国名を朝鮮としました。

 その後、朝鮮は、倭寇の鎮圧政策と並行して懐柔政策も始めました。具体的には、貧しい倭寇に対し、投降を呼びかけ、これに応じた者には十分な食料と衣類を与えました。さらには官職を与え、住居までも与えた例もありました。

 このような努力の結果、朝鮮半島を荒らしまわる倭寇の多くが朝鮮政府に投降し、それでも海賊行為を辞めなかった一部の反攻者は、武力制圧され、15世紀までに朝鮮半島での倭寇は消滅していきました。

 

 一方、明国は出来るだけ自国の損害のないように倭寇を撃滅しようとしました。明国政府も高麗政府と同様に、室町幕府に使者を送りました。1368年に明を建国した洪武帝は、同年室町幕府3代将軍に就任した足利義満に明国への冊封と、倭寇の取り締まりを依頼しました。しかし、その頃の義満は支配者にふさわしい地位ではなく、南北朝の合一も出来ていなかったので、受け入れられませんでした。

 一方で、義満も明と国交を開き、貿易をしたいと願っていた義満は、南北朝の合一を果たし、太政大臣に昇格した後の、1401年に改めて明の皇帝に使者を送りました。

 明の皇帝は、これを日本からの正式な使者と認めました。

 翌1402年、明は改めて日本に使者を送り、日本と明に正式な外交関係が生まれました。義満を日本国王に任命し、倭寇の取り締まりを任せるとともに、渡航証明書を持つ遣明船と倭寇の船との区別をはっきりさせ、貿易を行うことになりました。

 この外交関係は日本にとっては不平等なものでしたが、義満は関税のかからない自由な貿易(日明貿易)の許可を得ました。義満は、明国の面子(めんつ)を守りつつも、貿易で大儲けをし、それを幕府の財政基盤としたのです。

 

 さて、この倭寇の正体ですが、前期倭寇と後期倭寇でそれぞれ違うようです。14世紀~15世紀に活動した前期倭寇に関しては、そのほとんどが九州3島(対馬壱岐・松浦地方)の住民だったようです。この3島は、もともと農業には適さない地形で、島民は海に出て漁業や貿易によって生計を立てていました。

 しかし、生活に困窮すると、にわかに海賊に転じ、略奪行為をしたのです。人間は、食べるのに困ると盗みなどの非道徳・非人道的なことをしてしまう典型例といえるでしょう。

 しかし、近年の調査では、前期倭寇は、必ずしも日本人だけで構成されていたとは限らなかったとされており、そのなかには朝鮮半島の人々も含まれていたとされています。確かに400~500もの船を従え、1000を超える兵士を整えるのは、九州3島だけでは不可能です。朝鮮の史書でも、朝鮮人でも日本に住むようになれば、倭人と呼んでいたことが分かっています。

 こうした背景には当時、日本と朝鮮、中国の境界領域には、民族的な出自や言語・服装が一致しない人々が多数存在していたことがわかっています。彼らはどの国にも属さない境界人(マージナル・マン)と呼ばれ、どの国家の命令も聞かず、居所も定かではありませんでした。

 したがって、現在では、国や民族を超えた人々が交流するなかで倭寇が生まれたと理解することが主流です。

 そんな前期倭寇の取り締まりに関しては、先述通り、日本・朝鮮・明国の外交政策によってとりあえずの成果を得ました。

 

 しかし、16世紀後半、倭寇が再び活動を始めました。彼らは後期倭寇と呼ばれており、東南アジアの島々にまで活動海域を広げ、略奪行為を始めました。前期倭寇と異なるのは、略奪に加えて、密貿易を行った点です。構成員も違い、その多くは中国人で、その首領の1人として明の密貿易商人・王直(おうちょく)が有名です。しかし、その拠点は平戸・五島といった九州地方に置かれており、頭を剃り上げるなど日本人を装っていました。

 密貿易が行われるようになった背景には、明国が、1572年に貿易政策に関する法律を緩めたことがきっかけでした。

 後期倭寇は、豊臣秀吉が1588年に海賊禁止令を発布し、倭寇の活動を禁じたことで、彼らも次第に姿を消していきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる   日本史  山岸良二=監修