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【蒙古襲来2】日本の国難を救ったのは神風ではなかった!?【北条時宗】

こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【蒙古襲来2】日本の国難を救ったのは神風ではなかった!?【北条時宗】」というお話です。

12世紀後半、モンゴル高原に現れたチンギス=ハンは、瞬く間に高原を平定すると、騎馬を使って殺戮のかぎりを尽くしながら西へ西へと版図を拡張し、未曾有のモンゴル大帝国が誕生しました。モンゴル軍は非常に残虐で、集落を襲った際は、男はすべて殺し、女は手に穴をあけて紐を通し、持ち去ったといわれています。
そして1260年、チンギス=ハンの孫のフビライ=ハンがモンゴル帝国の5代皇帝に就任しました。しかし、このときのモンゴル帝国はいくつかの国々に分かれており、宗家であるフビライの領土は、中国北部や朝鮮半島を中心とした東アジアでした。
そんなフビライの次の目標は南宋の征服でした。フビライ南宋に宣戦布告をする一方で、日本を味方にして南宋を孤立させる作戦をとったのです。フビライは高麗を通して日本に国書を送りました。

1268年、鎌倉幕府フビライの国書をもった高麗からの使者が九州の大宰府に到着したとの連絡が入りました。国書のなかでフビライは日本に朝貢(みつぎ物を持たせた使節を送ること)を求めていました。しかし、それは極めて無礼で武力をチラつかせた脅迫的なものでした。
幕府は外交権を持つ朝廷に国書を伝えてその対応を待ちながら、モンゴルの襲来に備えて用心するよう西国の守護らに命じました。結局、朝廷では返書を送らないことが決定され、幕府はこの決定を受けて返書を与えないまま使者を帰国させました。
幕府では、1263年に北条時頼が亡くなった後、その子である時宗がまだ13歳と若かったため、一門の長老・北条政村が7代執権として政務にあたっていました。
しかし、この非常事態に立ち向かうため、18歳になった時宗を次の8代執権に就任させました。
モンゴルからの使者は、その後も次々と日本にやってきましたが、幕府はこれを全て無視し、朝廷も無視したため、モンゴル軍の襲来は避けられない情勢となりました。
幕府は西国に所領を持つ御家人に西国に移住するよう命じると同時に、九州の守護に対しては、国内の御家人を動員して北九州の海岸の防備にあたるように指令しました。
たびたび国書を遣わしたにも関わらず、返事がないことに怒ったフビライは、ついに日本に向けて兵を送ることを決意しました。
こうしたとき、高麗では、モンゴルに服属した国王に不満をもった武人たちの組織の三別抄が反乱を起こし、3年にわたって抵抗を続けたため、日本への遠征軍は大幅に遅れます。
この間の1271年、フビライは都をカラコルムから大都(現在の北京)に移し、国号を「元」と改めました。
そして、三別抄の乱を鎮圧した翌1274年、いよいよ日本征服に乗り出しました。

1274年10月、高麗を出発した元軍は約3万で、そのうち8千は高麗軍で構成される連合軍(以下、元軍)は、対馬壱岐を襲撃し、島民を惨殺した後、10月20日には博多湾に上陸しました。
これを迎え撃つのは、少弐景能(しょうにかげよし)を指揮官とする鎮西(九州)の日本軍およそ5千騎で、元軍との激烈な戦いがはじまりました。
宋や朝鮮では向かうところ敵なしで、日本もすぐに屈服するものと考えていた元軍は、日本軍の強い抵抗に驚きました。
対する日本軍も、数万の兵が集団で攻めてくる元軍に強い恐怖心を抱いた。
元軍の戦法は、法螺貝や太鼓を合図に一心乱れぬ動きで引いたり攻めたりする集団戦法や、毒を塗った矢や火薬をこめた「てつはう」とよばれる武器を使われました。これに対して日本側は「やあやあ我こそは~」と名乗りをあげて、一騎打ちを挑むという戦い方だったため、苦戦を強いられて大宰府にまで退けられました。このとき、少弐景能の弟の景資(かげすけ)が放った矢が追撃する敵将の劉復享(りゅうふくこう)に命中していました。大将が負傷したことで、元軍は追撃をあきらめて船に引き揚げました。
こうして戦況は明らかに日本軍が不利でしたが、翌日になってみると、元軍はすでに博多湾から撤退していました。
優勢だったはずの元軍はなぜ引き上げたのでしょうか。日本軍はわからなかった。敵将を射ていたことに気づかなかったのです。
元軍としても、日本軍の抵抗が予想以上に激しかったことで矢が尽き、兵士たちの疲労もピークに達していたことから、撤退を余儀なくされました。それでも、元軍内では戦争続行派がおり、撤退派と分裂する内輪揉めが起こりましたが、結局は撤退しました。
しかも、その夜は激しい嵐が吹き荒れ、多くの船が流されたこともあって、元軍は風雨のなか撤退していきました。元軍は11月末には朝鮮に帰還するも、1万3千余りが未帰還だったといわれています。
この戦いを当時の年号をとって文永の役といいます。
当時の人々にとって、元軍が引き揚げた理由として唯一考えられたのは暴風雨、すなわち「神風」であったと実感したのは当然でしょう。
なぜ自然現象である暴風雨が「神風」になったのでしょうか。実は元軍が攻めてくる際、公家や大寺社などの宗教勢力が「敵国調伏」を祈願しており、元軍が撤退したのは、彼らが「自分たちの願いが通じ、神が風を吹かせて敵を追い払ったのだ」と大々的に主張したことによるものでした。しかし、この神風のインパクトが強すぎて、鎌倉武士たちの奮闘は影に隠れてしまいました。

さて、文永の役のあと、幕府は元の再襲来に備えるため、九州に所領をもつ御家人たちに、北九州の警護に当たらせる異国警固番役に交替で就くよう命じました。
そうしたなか、日本に降伏を求める元の使者が何度かやってきましたが、幕府はこの使者を斬り捨て、断固として戦う姿勢を示しました。
そして、文永の役の戦訓をふまえて、全国の御家人の持っている土地一反につき石一つという割り当てで、石築地とよばれる長大な石塁(石垣)を博多湾一帯に築かせて、さらに守りを固めました。
この間、フビライ南宋を攻めるために全力をあげていましたが、1279年に南宋を滅ぼすと、再び日本に遠征軍を派遣することにしました。
今度は遠征軍を二手に分け、元と高麗の連合軍からなる4万の東路軍と、南宋の兵士からなる10万の江南軍の合計14万の兵を日本に向かわせました。このとき、元軍は調度品や農耕具も携えていたことから、日本占領後、屯田兵を駐留させる計画だったと思われました。

1281年5月、東路軍はいち早く高麗を出発し、対馬壱岐を襲って6月には博多湾に進みました。しかし、石塁と日本軍の攻撃に阻まれて上陸出来ず、いったん退きました。そして7月になって、ようやく遅れてきた江南軍と平戸(長崎県平戸市)のあたりで合流しました。
そして主力部隊が鷹島長崎県松浦市)に着くと、九州本土に全面攻撃を仕掛けました。2カ月にわたって沿岸各地で激しい戦いが展開されましたが、堅固な海岸防備と、敵船に斬り込むなどの日本軍の果敢な攻撃によって、元軍は優勢を保ちながらも海上に長期間の停泊を余儀なくされました。しかし、これがいけなかった。ある夜、九州一帯を暴風雨が襲い、嘘のような話ですが、一夜にして10万以上の兵士が海のもくずに消えたのでした。
多くの兵士を失った元軍はすっかり戦う意欲をなくし、日本軍の追い打ちにも遭ったことで、撤退していきました。
この戦いを弘安の役といいます。以上、文永と弘安の2度にわたる元の襲来を元寇といいます。
以下は、元軍の戦力差です。合計2回の襲来時における元軍の戦力です。この戦力差から考察できることとして、文永の役は日本への偵察や威嚇が目的でしたが、後の弘安の役では、フビライは本気で日本を侵略しようとしたのでしょう。

文永の役 弘安の役
兵士 約3万人 約14万人
戦艦 約900隻 約4400隻

その後も、フビライは日本への遠征を計画しましたが、実行にはいたりませんでした。元軍の侵入を食い止めた時頼は、戦死者を供養するために、中国から招いた無学祖元を開山とし、鎌倉に円覚寺を建てました。
そして、時宗自身も、力を使い果たしたかのように1284年に34歳の若さで亡くなりました。
その後、人々のあいだには、元軍を襲った暴風雨を神が吹かせた「神風」とみる見方が広がり、日本は神が守ってくれる「神国」だとする考えが広まるようになりました。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社
早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社
よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC