【白村江の戦い】天智天皇の国防政策をわかりやすく
こんにちは。本宮 貴大です。
今回は、白村江の戦いを見ていきながら、天智天皇の国防政策について解説していきたいと思います。
589年に中国を統一した隋は、高句麗への出兵などに失敗し、7世紀はじめの618年に滅びました。隋にかわって中国を統一したのが唐です。
唐は、隋の制度を引き継ぎ、国を整備していきます。
唐はしだいに国力をつけ、隋をこえる大帝国となっていきます。
そうして7世紀半ばになると、対立していた朝鮮半島の高句麗を攻め始めました。
一方で、新羅も朝鮮半島統一を目指して高句麗や百済を攻め始めました。
こうして利害関係が一致した唐と新羅は、手を結んで高句麗や百済を攻め始めました。
これによって、百済は唐・新羅連合軍によって660年に滅ぼされました。倭国へと逃げ延びてきた百済の遺臣達は、百済再興のために、倭に援軍をもとめてきました。
これを受けた中大兄皇子を中心とする朝廷は、昔から交友関係にある百済の再興を助けるために、朝鮮半島に援軍を送ることにしました。朝鮮半島での足場を失いたくなかった倭国としても百済再興は願ってもないことでした。
661年、中大兄皇子は弟・大海人皇子とともに船で大軍を率いて難波津(大阪)から九州に向かい、朝倉宮(福岡県)を築いて根拠地としました。
ところが、斉明天皇が急逝してしまうという不測の事態が起こり、以降は息子の中大兄皇子が皇太子のまま、指揮にあたり、援軍を送りました。
663年8月、倭の2万7000の大軍勢は、朝鮮半島南西部の白村江に向かいました。
しかし、彼らを待ち構えていたのは唐精鋭の170隻の大型船の部隊でした。
対する倭軍は、400隻と数こそ上回っていたものの、小舟ばかりで、おまけに兵の多くが各地の豪族たちが徴兵した寄せ集めの軍団でした。
そんな状況で、倭軍は百済軍とともに、唐・新羅連合軍と海上で激突しました。
これが白村江の戦いです。
戦闘は当初、日本が優勢でした。
しかし、唐の水軍の大幅な増援によって戦況は逆転しました。
倭軍の400隻の船は炎上し、多くの兵士が焼け死んだり、溺れ死んだりし、海を真っ赤に染めたと言われています。
結局、2日間にわたる激しい戦いは、倭軍の大敗北に終わりました。
大敗を喫した倭軍は、百済の惨敗兵をも引き連れて、九州へと戻っていきました。
こうして百済は完全に滅亡し、倭は朝鮮半島での足場を失ったのでした。
その後、朝鮮半島では668年に唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼし、676年、新羅が朝鮮半島の統一に成功しました。
大軍を送り込んだ白村江の戦いでの敗北は、中大兄皇子や中臣鎌足をはじめ、朝廷の人々にショックを与えました。
具体的には、唐・新羅連合軍が倭国に攻めてくるのではないかという恐怖心です。
これに怯えた中大兄皇子は、国防を強化する必要性に迫られました。
まず、唐が真っ先に目指すと想定されたのが、九州の役所・大宰府でした。皇子はここを防衛基地とし、それを守るために全長1.2キロメートル、高さ13メートルにもおよぶ長大な堤防として水城(土塁と堀)を築きました。
また、対馬、壱岐(ともに長崎県)、北九州の海岸に防衛のため兵士として防人が置かれました。
その後、朝鮮半島から大宰府までの侵攻ルート及び、大宰府から大和への侵攻ルートと想定される瀬戸内海沿岸の各地に山城をつくって、いざというときに備えました。この山城は朝鮮半島における山城と同様の構造であったことから朝鮮式山城と呼ばれています。
667年、中大兄皇子は都を飛鳥(奈良県明日香村)から近江国(滋賀県)に移しました。その理由として、近江は飛鳥より内陸で、防衛に適していたからです。
そうして琵琶湖のほとりの大津宮(滋賀県大津市)で即位し、天智天皇となりました。
天智天皇は、中臣鎌足の補佐を得て、天皇中心の政治を進めました。大化の改新に基づく政治改革を進めていきました。
668年、中臣鎌足が中心となり、近江令という法令がつくられました。
また670年には人民から税を集めるため、庚午年籍という全国的規模の戸籍をつくらせました。
翌671年には、太政官制度も整い、国を統一する政治組織がほぼ完成しました。しかし、天智天皇は同年、急死してしまいました。
参考文献
地形と地理で読み解く 古代史 洋泉社MOOK