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【大化改新】改新の詔の政治方針をわかりやすく

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 

 7世紀半ばに充実した国家体制を整えた唐が高句麗への信仰を始めると、国際的緊張の中で周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要性に迫られました。

 

 倭国でも、中央集権国家体制の必要性を強く感じていた中大兄皇子中臣鎌足がクーデターを起こし、それによって蘇我蝦夷・入鹿が倒れ、蘇我氏宗家は滅亡しました(乙巳の変)。

 こうして中大兄皇子率いる新政権が誕生し、大王宮を飛鳥から難波に移して政治改革が行われました。

 

 中大兄皇子の母である皇極天皇は退位し、叔父が孝徳天皇として即位し、皇子は皇太子になりました。

 また、阿部内麻呂を左大臣蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣、旻と高向玄理を国博士(くにのはかせ)とする新政権が発足しました。

 そして新政府は646(大化2)年正月、「改新の詔」を出し、以下の4か条からなる方針を示しました。

第1条.「昔の天皇たちが設置された子代の民や各地の屯倉、また、臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・村首(むらのおびと)の所有する部曲の民や、各地の田荘を廃止せよ。」

 これは、公地公民とよばれる制度であり、それまで豪族たちが所有していた土地と人民の支配権を全て国家(天皇)のものとする宣言です。現代風にいうと、私有地や私有民がすべて国有化されたということです。

 

第2条.「初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関所・監視委員・防人・駅馬を置き、および鈴契を造り、山河を定めよ。」

 これは中国にならって地方の行政単位を国・郡・里に分け、それぞれに国司・郡司・里長を地元ではなく、中央で任命して派遣した。これこそ中央集権国家体制の中核を成す制度です。(ただし、これらの方針が実現するのは大宝律令以降、8世紀になってからのことです。)

さらに、軍事施設やそれらをつなぐ交通制度も整備することが宣言されています。

 

第3条.「初めての戸籍・計帳・班田収授の法を造れ」

 これも、やはり中国の律令制度を手本にしてつくられた制度です。この法律によって戸籍や計帳(課税のための台帳)が作られ、班田収授法が作られました。班田収授とは、国民には田(口分田)を与え、収穫の一部を税として納めさせるという意味です。

 

第4条.「旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。別に個別の調を収れ。」

 これは改新前の税制を辞めて、統一した新税制を行うことを宣言した。これまた中国の律令をモデルにした制度で、租・調・庸の3種類もの税を納める義務が発生しました。

 

 これらの政治方針はすべて『日本書紀』に書かれていますが、初めからすべてが施行されたわけではなく、この後、政治改革は、半世紀かけてすすめられ、701年の大宝律令以降、8世紀になってから中央集権国家は整えられていくのです。

 

以上。

 

参考文献

読むだけですっきりわかる日本史   後藤武士=著 旺文社

アナウンサーが読む 山川 詳説日本史  山川出版社

教科書よりやさしい 日本史       石川正康=著

日本の歴史1 旧石器~平安時代     ポプラ社