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【乙巳の変】なぜ蘇我氏は滅ぼされたのか

こんにちは。本宮 貴大です。

乙巳の変】なぜ蘇我氏は滅ぼされたのか

 

蘇我氏といえば、天皇を傀儡し、朝廷内で強大な権力を握っていた当時最有力の豪族です。

そんな蘇我氏は、大化の改新中大兄皇子率や中臣鎌足よって討たれたわけですが、なぜ蘇我氏は滅ぼされたのでしょうか。

また、なぜ蘇我氏は朝廷内で強大な権力を握ることが出来たのでしょうか。

今回は、それらを探りながら、乙巳の変についてのストーリーを展開して言いたいと思います。

 

古墳時代、渡来人が日本に進んだ技術や文化を伝えてくれました。

当時の日本(以下、倭国)は、国内の技術的な遅れに危機感を感じており、国策で大陸文化の受容に努めました。その様相は、まさに明治時代に日本が西洋の技術・文化を取り入れる姿に非常によく似ていました。

そのため、渡来人は飛鳥(都)の地に居住し、大変な優遇を受けましたが、やがてそれが行き過ぎると、渡来人は強大な権力を握るようになっていきました。

そんな渡来人を配下に置いたのが、蘇我氏でした。

朝廷内で蘇我氏と並ぶ権力を握っていた物部氏や大伴氏といった豪族は、渡来人を自分達の支配下に置くことが出来ませんでした。

しかし、蘇我氏だけは渡来人を組織し、支配下に収めることができた。

そんな蘇我氏は渡来人に対する支配力を利用して、朝廷内で優位な地位を得ていきました。

 

 朝廷内での蘇我氏の登場のきっかけは、蘇我稲目が自分の娘を天皇に嫁がせる外戚がはじまりでした。

 さらに、その息子である馬子は、厩戸皇子(以下、聖徳太子)と泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)と力を合わせて廃仏教派の物部氏を滅ぼした後、即位した崇峻天皇を暗殺した。

 以後、蘇我氏の権力はますます強くなり、政権は蘇我氏の独占状態になりつつあった。

 そんな蘇我氏の横暴を抑えるかのように飛鳥時代初期の政権運営は、推古天皇聖徳太子蘇我馬子三頭政治によって進められていきました。

しかし、622年に聖徳太子が亡くなり、624年には馬子が、そして628年に推古天皇も亡くなると、それまでの三頭政治のパワーバランスが完全に崩れ去り、馬子の地位は、子の蝦夷が引き継ぎ、蘇我氏による朝廷の一極支配の状態となった。

 

 しかも、推古天皇は皇太子を決めずに亡くなったため、皇室には皇位継承をめぐって対立が起きていました。

 その対立構造は、聖徳太子の息子である山背大兄皇子と、蘇我氏の近縁である古人大兄皇子の対立でした。

 しかし、蘇我蝦夷は、山背大兄皇子を抑えて、自分たちの都合の良い舒明天皇を即位させました。

また、舒明天皇が亡くなると、またも蝦夷は、山背大兄皇子を抑えて、舒明天皇の皇后を皇極天皇として即位させました。皇極天皇は2人目の女帝となりました。

また、蝦夷と入鹿は自分たちの葬られる墓を、天皇の墓を意味する陵(みささぎ)と呼ばせたり、天皇の許可なく入鹿を大臣にしたり、雨乞いの儀式を行ったりと勝手な振る舞いが目立ちました。

それでも蝦夷は、カタチだけは天皇を敬い、豪族たちを尊重する態度を見せました。

 

しかし、入鹿は違っていました。

643年11月、山背大兄皇子が自殺しました。

彼を自殺に追い込んだのは、入鹿で、王に謀反の罪をかぶせて自殺をさせたのです。

この暴挙は、皇室や多くの貴族から反感を買いました。

「こんな蘇我氏の横暴は阻止しなければいけない。」

こうして立ち上がったのが、中級豪族の中臣鎌足でした。

鎌足は、大変な勉強家で、唐から帰国した僧旻や南淵請安に師事し、大陸の新知識を多く吸収し、唐のような律令国家にならい、日本を天皇を中心とする中央集権国家の樹立の必要性を強く感じていました。

その理想を実現するには、蘇我氏のような強大な存在は排除しなければならなかった。

 

このような情勢を巧みにとらえ、蘇我氏打倒を計画したのが中級豪族の中臣鎌足でした。

鎌足は、皇族の中大兄皇子の賛同を得ることに成功しました。

ある日、中大兄皇子が蹴鞠(けまり)をしていて、鞠がこぼれた時、それを拾ったのが中臣鎌足でした。その時に、蘇我氏を滅ぼす計画を中大兄皇子に提案したという。

さらに鎌足は、蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き込みに成功した。石川麻呂は蘇我氏一族ですが、この時は皇族に味方しました。

そして鎌足は、佐伯氏、葛城氏らも誘って入鹿暗殺を計画します。

645年6月12日、鎌足らは朝鮮三国(高句麗百済新羅)から使いが来日したと皇居に嘘の報告をしました。

使節天皇に貢物を渡す儀式で、なおかつ天皇の目の前では、さすがの入鹿も刀を預けざるを得ません。

これで丸腰となった入鹿を討つ絶好のチャンスが訪れたのです。

 

計画では、石川麻呂が使節からの手紙(上表文)の朗読をしているあいだに合図によって入鹿を切りつけることになっていた。

しかし、石川麻呂の朗読がはじまっても刺客は緊張して動けませんでした。

さらに、石川麻呂自身も不安のために声が震え、冷や汗を流してしまった。

これを不審に思った入鹿は「なぜ震えているのか」と尋ねた。

その直後、ためらう仲間を見かねた中大兄皇子が入鹿に斬り込みました。こうして入鹿はあっさりと討たれました。

翌日、息子の入鹿を失った父・蝦夷は屋敷に立て籠るも、中大兄皇子らに取り囲まれ、また味方してくれるはずの豪族たちも次々に皇子側に寝返り、蝦夷はあきらめて自ら屋敷に火をつけて自害。

ここに蘇我氏宗家は滅亡しました。

こうして皇室を乗っ取ろうとした蘇我氏を滅ぼすことに成功した朝廷は、以後、様々な改革を実施していきます。この改革がいわゆる「大化の改新」です。

 

最後になりますが、なぜ蘇我氏は渡来人を配下に置くことが出来たのでしょうか。

そこで浮上してくるのが、「蘇我氏渡来人説」です。

蘇我氏は実は渡来人であったのではないか、という仮説です。これほど有名な歴史上の人物であるにも関わらず、その出自がはっきりせず、突如として現れたからです。

しかし、いずれにしても、蘇我氏率いる渡来人勢力が日本の皇室を乗っ取ろうとするなど、とんでもない話。

それを阻止しようとしたのが、中大兄皇子率いる皇族勢力だったわけですが、彼らによって蘇我氏宗家は根絶されました。

つまり、乙巳の変とは、渡来人勢力である蘇我氏に皇室を乗っ取られる寸前のところで阻止した政治的な大改革だったのです。

乙巳の変とは、国家を専横していた蘇我氏の一族がここで排斥されたということだけは間違いのない事実とみて良いでしょう。

 

参考文献

早わかり 日本史                河合敦=著

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著

総図解 古代史  瀧音能之=著