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【十七条の憲法】条文に込められた聖徳太子の願いとは?【聖徳太子】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【十七条の憲法】条文に込められた聖徳太子の願いとは?【聖徳太子】」というお話です。

 聖徳太子の業績の一つに十七条の憲法がありますが、この条文を読むと、当時の聖徳太子が日本という国を、どのような国にしたかったのかがわかります。

 憲法十七条は604年に制定された聖徳太子による日本最古の成文法だとされていますが、法典というよりも、道徳的な規範を説いています。
 しかし、気をつけるべきは、この条文は現代の憲法のように誰もが守らなければいけない法律ではなく、朝廷で働く役人たちが守るべき心構えのようなものであるという点です。

一に曰く 「和を以って貴しとなし」
 「和」とは平和の和を意味し、それを大切なものとして扱えということです。古墳時代以来、ヤマト政権は「豪族」とよばれる各地の支配者が大王(オオキミ)を中心としたまとまった連合体でした。
 しかし、豪族たちのあいだでは、常に熾烈な権力争いが繰り広げられていました。物部氏蘇我氏の二大氏族による争いや、蘇我馬子による穴穂部皇子崇峻天皇の暗殺など・・・。
こうした国内情勢を憂いた太子の願いが込められています。

二に曰く 篤く三宝を敬え
 これは、三つの宝を大事にしなさいという意味ですが、三つの宝とは「仏」「法」「僧」です。つまり仏教とその教え、そしてそれを説くお坊さんを大切にしなさいという教えです。
 つまり、役人(豪族)たちに仏教の教えを勉強させることで、権力闘争をやめさせようという意図があったのだと思います。

 聖徳太子の言葉に以下のようなものがあります。
世間虚仮、唯物是信(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)

 これは「この世にあるものごとはすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実である」という意味で仏教を重視する聖徳太子の気持ちがうかがえます。
なぜ聖徳太子は仏教を重視したのでしょうか。

 インドの釈迦(ブッダ)が悟った内容は、ブッダの死後100年のあいだに、根本分裂が起こり、大乗仏教上座部仏教に分かれました。
 そのうち、大乗仏教は竜樹(ナーガールジュナ)によって理論付けされ、中国や朝鮮半島を通じて日本に伝わってきました。
 その竜樹の思想に「空の思想」というものがあります。
 「空」とは、この世になる者簿との全ては不変の実体をもたないもの、一時的に存在しているだけのはかないもののことですが、聖徳太子も当時の役人たちに、この「空の思想」を学ばせたかったのでしょう。

 つまり、当時の役人たちが必死になって手に入れようとしている権力、地位、富は、すべて「空」なる存在であり、思っているほど重要な価値あるものではない、なので物欲や出世欲もほどほどにしなさいということなのでしょう。

三に曰く 詔を承りては必ず謹め
「詔」とは天皇の命令のことですが、ここで初めて天皇の命令には必ず従いなさいという条文が出てきます。
本来なら、この条文が第一条にくるはずではないでしょうか。
逆にいうと、それだけ当時の役人たちによる内乱や権力闘争の激しさが深刻なものであり、倭国の国としての統一感が全くなかったということでしょう。
天皇よりも、国の秩序を優先する。」
これが太子の願いなのでしょう。

そして、最後の条文を紹介します。
十七に曰く 独断ずべからず 必ず衆と論ずべし
これは政治においては独裁体制ではなく、民衆の意見も取り入れなさいという意味です。
これは現代の民主主義の政治体制の原型ともいえるでしょう。日本の民主主義の政治体制は、それから1250年後の明治天皇五箇条の御誓文の第一条「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の条文からスタートしていきますが、飛鳥時代にすでに聖徳太子が役人に説いていたことには驚かされます。

今回は、聖徳太子の十七条の憲法について紹介しましたが、その条文からは天皇を中心として国家としてまとまりのある強い国をつくりたいと願う太子の思いがうかがえます。
太子自身は、天皇にはならず、天皇を補佐する摂政に就任しましたが、仏教の教えを厚く信仰し、仏教によって国内の平和を願う聖徳太子の姿は、まさしく天皇そのものです。
また、十七条の憲法全文を読むと、それは単なる規範ではなく、現代にも通じる普遍的な理念を打ち出している点で、むしろ憲法の名にふさわしいものといえるでしょう。
そんな十七条の憲法が、世界最初の成文憲法といわれているアメリカ合衆国憲法が発布される約1200年も前に制定されていたことに感嘆させられました。
以上