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【飛鳥時代1】聖徳太子の願いとは?【十七条の憲法】

こんにちは。本宮 貴大です。


 飛鳥時代とは、日本がひとつの国家として本格的に始動し始めた時代であるといえます。
 そんな飛鳥時代のはじまりは、日本最初の女帝である推古天皇の即位によってはじまり、聖徳太子の活躍によってその発展を遂げます。

 聖徳太子の主な業績といえば、冠位十二階十七条の憲法ですが、特に十七条の憲法の条文を読むと、当時の聖徳太子が日本をどのような国にしたかったのかがわかります。

 592年、推古天皇(第33代)が日本最初の女帝として即位しました。
 聖徳太子推古天皇の摂政の地位に就いたのは、翌593年のことです。
 摂政とは、天皇を補佐して政務をとる職のことです。

 603年、聖徳太子によって冠位十二階が制定されました。
 これは個人の能力や功績に応じて位階を与える制度ですが、ポイントとしては、世襲が認められていない1代かぎりのものであるところでした。
 それまでヤマト政権の要職は、各地の豪族がそれぞれの家柄に応じて独占、そして世襲していきました。これを氏姓制度と呼びます。
 太子は冠位十二階によって、世襲によってその権力に甘んじている豪族たちからその権力を奪い取り、本当に優秀な人材にのみ政治的な権力としての位階を与えたのです。
(冠位は、徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて12階とし、それぞれの階級を紫・青・赤・黄・白・黒の濃淡で表した冠で区別した。)

 翌604年、憲法十七条が制定されます。
 これは聖徳太子による日本最古の成文法だとされていますが、法典というよりも、道徳的な規範を説いています。
しかし、気をつけるべきは、この条文は現代の憲法のように誰もが守らなければいけない法律ではなく、朝廷で働く役人たちが守るべき心構えのようなものであるという点です。


一に曰く 「和を以って貴しとなし」
「和」とは平和の和を意味し、それを大切なものとして扱えということです。古墳時代以来、ヤマト政権は「豪族」とよばれる各地の支配者が大王(オオキミ)を中心としたまとまった連合体でした。
しかし、豪族たちのあいだでは、常に熾烈な権力争いが繰り広げられていました。物部氏蘇我氏の二大氏族による争いや、穴穂部皇子崇峻天皇の暗殺など・・・。
こうした国内情勢を憂いた太子の願いが込められています。

 

二に曰く 篤く三宝を敬え
これは、三つの宝を大事にしなさいという意味ですが、三つの宝とは「仏」「法」「僧」です。つまり仏教とその教え、そしてそれを説くお坊さんを大切にしなさいという教えです。
外来の宗教である仏教を大事にしなさいと説いている。ここには、太子のどのような意図があるのでしょうか。
当時、日本に伝わってきた仏教は、インド発祥の個人を救済するための仏教(上座部仏教)とは異なり、大勢の人達を救うことが出来る大きな乗り物に喩えた大乗仏教でした。
つまり、太子は仏教を護国、つまり国を護るのに役立つ考えとして位置づけ、役人たちに学ぶよう説いたのではないでしょうか。
これは明治天皇が「西洋の憲法を参考にしよう」と考えたこととよく似ています。
もっというと、仏教を宗教ではなく、新しい学問として位置付けていた可能性もあります。

 

三に曰く 詔を承りては必ず謹め
「詔」とは天皇の命令のことですが、天皇の命令には必ず従いなさいということです。本来なら、この条文が第一条にくるはずではないでしょうか。逆にいうと、それだけ当時の日本国内の内乱や権力闘争の激しさが深刻なものであったということなのでしょう。
天皇よりも、国の秩序を優先する。」これが太子の願いなのでしょう。

 

そして、もうひとつ重要な条文です。
十七に曰く 独断ずべからず 必ず衆と論ずべ
これは政治においては独裁体制ではなく、民衆の意見も取り入れなさいという意味です。
これは議会のことでしょうか。それから1250年後の明治天皇五箇条の御誓文の第一条「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の条文によく似ています。

 

 今回は、聖徳太子の政策と、そこから読み取れる願いについて取り上げましたが、太子の十七条の憲法が単なる規範ではなく、現代にも通じる普遍的な理念を打ち出している点で、憲法の名にふさわしいものであることいえるでしょう。
 さらに、世界最初の成文憲法といわれているアメリカ合衆国憲法が発布される約1200年も前に制定されていたことに感嘆させられました。
以上

参考文献
よくわかる! 読む年表 日本の歴史   著=渡部昇一
読むだけですっきりわかる 日本史     著=後藤武
聞くだけで一気にわかる日本史       著=馬屋原吉博
総図解 よくわかる 古代史         著=瀧音能之