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【遣隋使2】小野妹子の大失態とは?【小野妹子】

こんにちは。本宮 貴大です。
【遣隋使2】小野妹子の大失態とは?【小野妹子

 聖徳太子のもう一つの功績は、あの強大国家・隋と対等外交に成功したことです。

 第一回遣隋使においては、隋は倭国を「国家としての体裁が出来ていない」として対等外交を断った。
 遣隋使の帰国後、その報告を受けた倭国は早急に冠位十二階や十七条の憲法といった国家としての最低限の体裁を整えます。

607年、小野妹子率いる第2回遣隋使が派遣されました。
妹子が隋の煬帝に差し出した国書には以下のように書かれていました。

「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」

これは「陽が昇る国の天皇が、陽が沈む隋の皇帝に国書を渡します。お元気ですか。」という意味です。

 確かに、位置的に倭国は中国からみて東にあるのですから日が昇る国であり、西側の中国は日が沈むところにあります。
 しかし、これを喩えて、「日が昇るような勢いよく発展している倭国が、今は勢いがあるけれど落ち目な隋に国書を渡す」というような表現にも取れます。

妹子は生きた心地がしなかった。

 ただでさえ、怒りっぽい煬帝がこの無礼な国書に激怒したのは言うまでもない。
 しかし、煬帝高句麗への侵攻の面から日本との対立は避けておく必要があったため、答礼使として裴世清を遣わしました。

 そこで妹子は、煬帝の返書と裴世清をともなって翌608年に帰国することが出来た。
しかし、その帰路で大失態を犯した。百済を通過する際、盗賊に襲われて煬帝の返書を奪われてしまったのです。

 朝廷内では、このミスをめぐって妹子を流罪にするべしとの声が上がった。
 しかし、推古天皇の温情により、裴世清の帰国に際し、留学生を連れて再び隋に渡ることでミスを許されました。

 しかし、なぜ妹子は盗賊に襲われながら、返書を奪われるだけで無事に帰国できたのでしょうか。不思議です。
そんなことから、返書は最初から持たされておらず、返書を奪われたのは真っ赤なウソであったのではないかと考えることも出来る。

 倭国の無礼に対して煬帝が書を与えなかった。しかし、返書もなしに帰国するのは、あまりに忍びないと思った妹子が盗まれた振りをしたという論です。もし事実なら、妹子を許した推古天皇らも、それを知っていた可能性が強いのではないだろうか。

 どちらにしても、同608年、裴世清の帰国に伴い、再び妹子は隋に向かいました。
推古天皇は「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」という書き出しの国書を妹子に持たせました。これは天皇という称号が使用された外交文書です。
この時、高向玄理南淵請安ら留学生も随行したのでした。彼ら留学生は、隋から唐への王朝の交代、唐の隆盛の様子を見て帰ってきます。
これが後に中国の先進的知識を日本にもたらし、「大化の改新」の理論的な指導者となるのでした。
その後、遣隋使は第4回の犬上御田鍬らの派遣を最後に終了します。
以上。

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