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【飛鳥文化】その特徴と文化財をわかりやすく紹介

こんにちは。本宮 貴大です。

飛鳥文化とは文字とおり、飛鳥時代に栄えた文化のことですが、特に推古天皇聖徳太子の頃の文化を指します。


飛鳥文化で覚えるべき代表的なものは以下の通り。
建築物としては、飛鳥寺法興寺)、四天王寺法隆寺
彫刻としては、釈迦三尊像百済観音像
工芸品としては、玉虫厨子
などです。


これらの文化財をストーリーと共に見ていきましょう。

 飛鳥時代とは、日本がひとつの統一国家としてはじめて成立した時代であり、国号としての「日本」や「天皇」などの文字も使われはじめた時代とされています。
そんな飛鳥時代の文化の特徴は2つあります。
1つは、仏教中心の文化であること。2つ目は、国際色の強い文化であること。

 まず、1つ目に関して。
 日本に仏教が公伝したのは、6世紀中頃の欽明天皇の治世下でしたが、朝廷は当初、仏教を容認しませんでした。
 仏教の受容をめぐって始まった有力者間(蘇我氏物部氏)の対立があったからです。
しかし、蘇我稲目欽明天皇に仏教の受容を強く勧めました。
「西方の国々はみな、仏教を信仰しております」
これに対し、欽明天皇は稲目に仏像を授け、仏教の私的な崇拝と寺の建立を許可しました。
 この時、許可された私的な寺のことを氏寺といいますが、初期の仏教文化は氏ごとに受容され、氏寺はそれまでの古墳に代わる豪族たちの権威の象徴となっていきました。

 その後、仏教の受容をめぐって始まった蘇我氏物部氏の対立は、587年の丁未の役で、蘇我氏の勝利で終わりました。
 これによって、仏教受容に対する抵抗勢力がなくなり、朝廷も仏教を容認したことで、倭国における仏教は推古天皇の治世下で、発展していきます。
 蘇我稲目の子である蘇我馬子は、本格的な伽藍配置を備えた氏寺としての飛鳥寺法興寺)が建立し、さらに推古天皇の摂政である聖徳太子四天王寺法隆寺を建立しました。
(伽藍配置・・・主要建築群の配置形式の一種)

 飛鳥寺は、建築技術や伽藍配置などに、百済高句麗にあった寺院と類似性がみられ、朝鮮半島の影響を強く受けていると考えられています。特に瓦(かわら)は、日本で最初に導入され、以後、国内にその技術が伝播していきます。

 法隆寺の金堂や中門の屋根も、入母屋造とよばれており、飛鳥文化の建築技法のひとつとして、現在にまでその技術が伝承されています。
 なお、法隆寺は飛鳥文化を代表する建築物で、現存する世界最古の木造建築物だと言われており、世界遺産にも登録されています。
 

 続いて2つ目について。
 倭国に伝来した仏教は、中国や朝鮮半島はもちろん、遠くギリシャやペルシア(ヘレニズム文化)、インドなどの影響も受け、非常に国際色の強いものとなっています。
 法隆寺の金堂の柱は中央部分が軽く膨れていて、これはエンタシスと呼ばれており、ギリシャパルテノン神殿の影響がうかがえます。

 また、倭国に伝わった仏教の特徴として、菩薩信仰が挙げられます。
 元来、仏教には仏像などを拝む菩薩信仰はなく、釈迦の姿などあまりに尊いために仏像にされることはなかったのが、ギリシャ文化やヘレニズム文化にみられる神像などの影響を受けて、仏像やガンダーラ美術を生み出しました。
そんな菩薩信仰ですが、法隆寺には、釈迦三尊像百済観音像の2つの国宝が納められています。
 釈迦三尊像は鞍作鳥(くらつくりのとり)という人物が彫ったと言われている金銅像で、法隆寺の金堂に納められています。百済観音像も同じく鞍作鳥が彫った木彫りの百済様式の仏像です。
 また、中宮寺広隆寺にある半跏思惟像の古拙の笑みが美しいことで高く評価されています。

 

 工芸品としては、玉虫厨子が非常に有名です。
 玉虫厨子とは、箱のようなものですが、人が入れるくらい大きなサイズです。普段は、仏教の経典や仏像を納めておくもので、その周りには2563枚にもおよぶタマムシの羽が張り付けられています。

 さて、今回のまとめですが、日本に最初に伝わった仏教は、飛鳥文化で一つの栄華を極めました。仏教は現世利益や病気治癒などを目的として、支配者階級に受け入れられ、以後、民間にも広がっていきます。
 飛鳥文化は、その初期の段階のもので、支配者階級が民衆を支配するための権威の象徴として寺院(氏寺)が建立されました。
寺院は、その建築様式だけでなく、仏像彫刻や壁画、工芸品などの仏教の芸術やその思想を学ぶための教育機関としての組織でもあったのです。
以上。

参考文献
読むだけですっきりわかる 日本史  後藤武士=著 宝島社文庫
読むだけですっきりわかる 世界史 古代編 後藤武士=著 宝島SUGOI文庫
図説 日本史通覧   帝国書院
朝日大人の学びなおし! 古代史  古庄浩明=著 朝日新聞社