【どう違う?】南北朝文化と北山文化、そして東山文化
こんにちは。本宮 貴大です。
この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【どう違う?】南北朝文化と北山文化、そして東山文化」というお話です。
是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。
室町時代とは、日本の伝統文化である茶の湯、生け花、能・狂言などが確立された時代です。それは室町時代の時期区分によって南北朝文化、北山文化、東山文化の3つの文化に分けられます。
南北朝文化 | 北山文化 | 東山文化 |
---|---|---|
南北朝期の将軍 | 3代将軍足利義満 | 8代将軍足利義政 |
質実剛健 | 華やか | 簡素 |
天皇が2人いる時代 | 室町幕府全盛期 | 下剋上の風潮が強まる |
歴史書や軍記物が多い | 金閣寺 | 銀閣寺 |
南北朝文化では動乱の時代を背景に、様々な歴史書や軍記物語が登場しました。この時代を描いた『太平記』は講釈の形で世に広まりました。また、喫茶の習慣が定着したことで、茶を飲んで判別する闘茶が流行しています。
南北朝時代は、足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼし、自らは北朝を擁護に、後醍醐天皇は南朝として南北朝の動乱が始まりました。その動乱期の最中に室町幕府が発足され、その礎を徐々に創っていきます。
天皇が2人いるという未だかつてない不安定な情勢から歴史に答えを求め歴史書が読まれたり、戦乱が続くなかで軍記物もさかんに書かれています。そんな南北朝時代に生まれた質実剛健な文化を南北朝文化といいます。
その後、北山文化が生まれ、そして東山文化が生まれます。しかし、両者は全く雰囲気の異なる対照的な文化であり、公家と武家が融合し、壮大で華やかな北山文化に対し、簡素で庶民文化に根ざした文化です。
北山文化とは14世紀末、3代将軍・足利義満が京都北山につくった別荘に因んでつけられた名前です。
義満の頃になると、南北朝の動乱も終わり、鎌倉時代の守護は守護大名と呼ばれるようになるなど、室町幕府の組織体制もほぼ完成します。
北山文化を象徴する建築物には、鹿苑寺金閣(金閣寺)が挙げられます。その建築様式は、伝統的な寝殿造風に禅宗様が加わっており、義満の広大な邸宅の敷地に築かれたものです。北山第と呼ばれたこの場所は、義満の「大内裏」のようなものであり、天皇に勝る権威の象徴でした。
義満は寺社の格式の整備も行い、臨済宗の南禅寺を頂点とする五山十殺の制を確立しました。そして禅の世界を具現化した水墨画が広まり、義満に庇護された観阿弥・世阿弥父子などによる能もさかんに演じられました。
北山文化で開花した室町時代の文化は、その芸術性が生活文化の中に取り込まれていき、新しい独自の文化として広く根付いていきました。
それは東山文化として8代将軍・足利義政の時代に開化します。7代将軍で義政の兄である足利義教(よしのり)の若死により、棚ぼた式に将軍になったものの、義政の政治運営力は最低ランクでした。
義政の優柔不断によって、応仁の乱が勃発。京都はあっという間に焼け野原になってしまいました。応仁の乱は、その後11年間続き、それがきっかけで強い者が勝ち、力のないものは身分に関わらず容赦なく排除される下剋上の風潮が強まってきます。
そんな足利義政ですが、文化人としては大変優秀で、応仁の乱に疲れ切った義政は京都東山に隠居し、義満にならって慈照寺銀閣(銀閣寺)を建てました。簡素で幽玄のおもむきの強い書院造風は、現在の和風住宅の原型となっています。
義政は銀閣を建てるのに7年も費やしていますが、財政難のため銀箔を貼る計画も遂に実現できませんでした。このことからもわかるように、東山文化には北山文化をつくりあげたほどの富はなかったが、そのかわり、庶民の生活に根差した文化が発達しました。
東山文化を特徴付ける質素さ、幽玄、侘びの美意識は、枯山水や雪舟らによる日本的な水墨画の確立などにも通じています。侘茶や茶道の基礎もこの時期に作られました。
この時代に盛んになった庶民の文化も、現在に受け継がれています。庶民文化の代表とは何より「一寸法師」や「浦島太郎」などの御伽草子。
正月や盆に着飾った人達が踊る風流踊りと念仏踊りが結びついた盆踊りが流行したのも室町時代のことです。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
オールカラーでわかりやすい 日本史 西東社
もう一度読む山川日本史 五味文彦=著 山川出版社