【遣隋使1】なぜ日本は隋と対等外交が可能だったのか。【小野妹子】
こんにちは。本宮 貴大です。
【遣隋使】なぜ日本は隋と対等外交が可能だったのか。【小野妹子】
今回は、飛鳥時代の遣隋使について取り上げます。小野妹子率いる遣隋使によって倭国は当時の強大国家・隋と対等外交に成功しましたが、なぜ可能だったのでしょうか。
それにストーリーを展開していきながら解説していきます。
562年、朝鮮半島の新羅が任那(みまな)を併合し、日本(以下、倭国)は朝鮮半島南端の利権を失ってしまいました。
これと同時に倭国は、それまでの中国南朝との関係を閉ざし、結んでいた冊封体制からも離脱しました。
「失った朝鮮半島の利権を取り戻すにはどうしたら良いか。」
これが大和朝廷の課題でした。
そんな中、589年中国の南北朝を統一した隋という国が強力な王朝として中国大陸に誕生しました。
この頃、倭国では推古天皇が即位し、聖徳太子がその摂政に就任していました。
強大な隋により、朝鮮半島諸国は次々と柵封されていきました。冊封とは、隋の皇帝から詔や称号を貰い、国王に任命してもらうことを言います。つまり、倭国を除く周辺諸国は隋を君主とする君臣関係を結んだのです。
しかし、朝鮮半島の利権を取り戻すには、すでに隋の冊封を受けた朝鮮半島諸国に対して外交的に優位な立場になる必要がありました。
そのために大和朝廷が考えたのは、「隋に対して対等な外交を結ぶこと」でした。
これが飛鳥時代の大和朝廷の外交における最大の課題となりました。
「どうにか隙を狙って隋に使節を送らなければ。」
推古天皇率いる大和朝廷は考えていました。
そんな中、598年、隋の文帝が対立関係にあった高句麗に出兵しました。
朝廷はチャンスとばかりに600年、新羅に対し、軍事行動を仕掛けました。
新羅は隋の冊封を受けていましたので、隋の出方をうかがおうとしたのです。
これとほぼ同時に第1回遣隋使が派遣されました。この情勢を利用して何とか隋と対等な外交を結ぼうとしたのです。
しかし、隋の文帝はあっさりと断りました。
「倭国はまだ国家としての体を成していない。そんな国と中華が対等であるはずがない。」
遣隋使の帰国後、その報告を受けた大和朝廷は、新羅討伐を撤回し、国家としての最低限の体裁を整えました。
具体的には、冠位十二階と十七条の憲法の制定です。
7年後の607(推古15)年、第二回遣隋使として小野妹子が派遣されました。
妹子が携えて国書には以下のように書かれていました。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや・・・」
これは、「陽が昇る国の天皇が、陽が沈む隋の皇帝に国書を渡します。お元気ですか。」という意味です。
この国書を読んだ二代目皇帝・煬帝は激怒しました。しかし、結局、隋は返礼使として裴世清を倭国へと遣わしました。
隋は高句麗との対立を憂いており、そのさなかに倭国との国交を断絶すれば、利害関係が一致する高句麗と倭国が手を組むことを懸念したためだと考えられます。
以後、倭国は隋の冊封を受けることなく、皇帝の徳を慕う国として扱われるようになりました。さらに対等な立場で中国の国家制度や優れた学問や文物を取り入れることに成功したのです。
今回は以上ですが、倭国は当時の東アジアのこうした情勢を知ったうえで、その絶妙なタイミングで対等外交を仕掛けるという優れた外交手腕を発揮したとのだといえます。
その結果、日本の国際的地位はそのあと飛躍的に上昇し、国内における天皇の権威も高まっていったのです。
以上。
参考文献
早わかり 日本史 河合敦=著
朝日おとなの学びなおし! 古代史 古庄浩明=著
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著