【遣唐使】唐に渡った重要人物たちをご紹介
こんにちは。本宮 貴大です。
今回は、「【遣唐使】唐に渡った重要人物たちをご紹介」というテーマです。
遣唐使とは、文字とおり、日本から唐(中国)へと渡った使節のことです。
その目的は、唐の進んだ政治制度や社会のしくみを取り入れるためで、唐からは実に様々な学問や技術が日本に持ち帰ることでした。
618年、隋に代わって中国大陸を統一した唐は、アジアに大帝国を築きあげました。その広大な支配領域は、周辺諸地域に大きな影響を与えました。しかも、短命だった隋とは対照的に、唐は以後300年も続きます。
西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(西安)は世界から人や物が集まる現代のニューヨークのような国際貿易都市として発展し、当時の東アジアの先進国として技術や文化が花開きました。
当時の日本はそんな唐に使いを送り、唐の進んだ文化や仏教を学ぼうとしました。これが遣唐使です。
遣唐使の最盛期は奈良時代で、630年の第1回遣使から、中止される894年までにおよそ20年に一度、合計20回の派遣が行われました。
遣唐使の一団は、大使や副使、留学生や留学僧、医師、神主、画家、通訳、大工、そして船長率いる大勢の水夫たちで構成されていました。
遣唐使船は普通、4隻の船団を組んで航海したので、「4つの船」と呼ばれました。1隻に約120人~150人が乗船しました。
遣唐使船は航海技術が未熟なうえに、暴風雨や逆風、さらに見栄を張って造船技術が未熟なのに、大きな船で向かったため、航海は命懸けでした。記録によれば、派遣された船のうち、およそ3割は遭難しています。
遣唐使には、唐の皇帝への献上品として、砂金、銀、水晶、絹織物、絹糸、麻などが用意されました。
唐からは、書籍や経典、仏像、錦(高級絹織物)、楽器類、工芸品、香木などを持ち帰りました。
日本から遣わされた第1回目の遣唐使派遣は、大化の改新の15年前の630年の犬上御田鍬ら率いる使節団でした。
654年の第2回派遣では、大化の改新で活躍した高向玄理が渡航しました。
さらに、702年の第8回派遣では、留学生として『万葉集』の歌人として知られる山上憶良がいました。
717年の、第9回派遣では、留学生として阿倍仲麻呂と吉備真備、そして僧の玄昉が唐に渡りました。朝廷が平城京に遷都してから初めての遣唐使派遣でした。
吉備真備や玄昉は、10回目の遣唐使派遣の際に帰国しますが、仲麻呂は唐でそのまま勉学を続けることにしました。
帰国した吉備真備や玄昉はその後、朝廷内で橘諸兄のブレーンとして出世し、真備は右大臣にまで昇格し、玄昉は聖武天皇の母・宮子の病を治すなどの活躍を見せました。
752年の12回目の遣唐使派遣では、遣唐大使・藤原清河と2回目の渡航として吉備真備が唐に渡りました。
清河は、唐で新年を迎えた際、儀礼の場で朝鮮半島の新羅の使節が日本より上位の席についたことに抗議したそうです。ここから当時の日本と新羅の関係は緊張状態にあったことがうかがえます。
清河は、唐に残っていた阿部仲麻呂とともに753年の13回目の遣唐船で帰国しようとするも、船が遭難したため、唐に引き返し、2人とも生涯唐の皇帝に仕えました。
仲麻呂は、唐の官吏登用制度である科挙に挑戦し、倍率3000倍の超難関試験であり、50歳で合格しても若いほうだといわれていたそうです。しかし、仲麻呂は20代後半で合格し、さらに玄宗皇帝にも気に入られて官吏として出世しました。さらに仲麻呂は詩人の李白や杜甫とも交流し、優れた漢詩をつくる文人として名を挙げています。
清河も唐の高官として出世しています。
804年の18回目の遣唐使派遣では、留学生には橘速成と、僧の最澄と空海が渡りました。
最澄と空海は帰国後、天台宗・真言宗というそれまでの奈良時代の仏教とは一線を画した新しい仏教を広めます。
そして、第20回目の遣唐使派遣は894年の大使に任命されていた菅原道真が唐の国力低下や内乱の勃発、渡航の危険性などを理由に派遣の中止を朝廷に建議しました。
この建議は受け入れられて、20回目の遣唐使派遣は中止に終わり、以後、遣唐使の派遣は行われることはありませんでした。
しかし、こうした勇気ある日本人のおかげで、我が国には進んだ唐の文化や政治制度が取り入れられ、その後の国家の発展には大いに役立ちました。
唐へ渡り、無事に帰国した留学生たちは、その見返りとして非常に高い地位を与えられ、政治に参画することが出来ました。吉備真備や玄昉はその代表例と言えるでしょう。
参考文献
読めばすっきり! よくわかる日本外交史 河合敦=著 角川SSC新書
読めばすっきり! よくわかる日本史 河合敦=著 角川SSC新書
教科書よりやさしい 日本史 石川晶康=著