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【菅原道真の悲劇】なぜ道真は天神様とよばれているのか【菅原道真】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【菅原道真の悲劇】なぜ道真は天神様とよばれているのか【菅原道真】」というお話です。

 

 菅原道真といえば、現在では「学問の神様」や「文学の神様」として人々に信仰されています。

 道真を祀る神社は全国にあり、代表的な神社を挙げると、東京の受験生の多くが訪れる湯島神社、関西では北野天満宮、そして福岡には大宰府天満宮があります。

 なぜ道真は学問の神様と呼ばれているのでしょうか。それは道真が優れた学者で、学問によって出世した人物だからです。

 一方で、道真は「天神様」とも呼ばれています。それはなぜでしょうか。

 今でこそ、学問の神様として親しまれている道真ですが、かつては「祟りの神」として恐れられていました。ここにそのヒントがあります。

 ということで、今回は道真の生涯をストーリーとして展開しながら、その理由に迫ってみたいと思います。

宇多天皇の時代に、藤原基経は正式に関白になりました。しかし、基経の子・時平は、関白の地位を継げませんでした。というのも、藤原基経の没後、宇多天皇は関白を置かず、天皇自らが政治を行う親政を復活させたからです。そのもとで天皇の信頼を得た菅原道真が右大臣にまで出世し、左大臣藤原時平と政界を二分するに至りました。

 887年、宇多天皇藤原基経を関白に任命しようとしたとき、天皇の任命書に阿衡という言葉があり、基経がそれに対し抵抗するという阿衡問題が起こりました。このとき、たまたま都にいて事情を知った菅原道真は基経を諫めました。

結局、困った宇多天皇は基経の阿衡の任命を撤回し、基経を改めて関白に任命しました。この一連の揉め事を阿衡の紛議といいます。

 

 さて、ここで道真の生涯を見てみましょう。

 845年、菅原道真は、朝廷で漢詩や文学、歴史を研究する文章(もんじょう)家の菅原氏の家に生まれました。

 そのため、幼い頃から漢詩や文学を学び、18歳になる頃には才能を開花させ、文章生となり、26歳で難関といわれた方略試という国家試験に合格し、朝廷の役人となりました。

 34歳になると文章博士となり、天皇家の文章などを起草しました。886年、42歳になった道真は讃岐国国司(国守)となり、任地に赴きました。

 翌887年に阿衡の紛議が起こりました。宇多天皇と基経の仲は決定的に悪くなってしまいました。その証拠に基経の没後、その子・藤原時平は関白の地位に就くことが出来ませんでした。

 宇多天皇は関白を置かず、天皇自らが政治を行う親政を復活させたのです。

890年、道真は、讃岐の国から都に戻りました。

 翌891年に基経が死ぬと、摂政・関白の地位は子の藤原時平が受け継ぐかに思われました。

 しかし、宇多天皇は関白を置かず、時平を参議に任命し、菅原道真を重く用いるようになりました。

 

 そして、宇多天皇元服した醍醐天皇皇位を譲る際、左大臣には時平を任命し、右大臣には道真を任命した。

そのうえで宇多太上天皇醍醐天皇に諭しました。

「政治の重要な決めごとは道真に相談するように」

 宇多天皇は阿衡の紛議において、いくら自分のミスとはいえ、基経が政務を放棄したことには強い不信感を抱いていました。そんな中、阿衡の紛議で力を尽くしてくれた菅原道真宇多天皇は高く評価していました。したがって、基経の子・時平よりも道真を通じて政治を運営しようとしたのです。

 

 891年の基経の死後、宇多天皇は関白を置かずに政治を行い、893年に道真を参議に任命し、阿衡問題で力を尽くしてくれた道真を側近として迎え入れ、 宇多天皇は実権を握ってきた藤原氏の勢いを抑えて、天皇中心の政治に戻そうとしたのです。

 894年、道真は遣唐使の大使に任命されました。しかし、道真は唐の国力が衰えて政情が不安定なこと、日本の財政がまずしく遣唐使を送る費用がないこと、渡航ルートが危険であることなど様々な理由で遣唐使の派遣中止を申し立てました。

 道真の進言は採用され、これ以後、中国との正式な国交はなくなりました。しかし、民間では博多(福岡県)などを拠点に、交易や文化の交流が行われました。

 

 その後、道真は宇多天皇にひきたてられ、権中納言権大納言を経て、899年に右大臣にまで昇格しました。政治に関わらない学者の家としては異例の出世でした。

 これに対し、朝廷では貴族のあいだに批判の空気が強まりました。道真の存在を最も煙たがっていたのは無論、藤原氏で道真をどのタイミングで、どのように追い落とそうかと伺っている状態でした。

 そして901年正月、道真は突然、謀反の罪を着せられました。

それは「道真公は、醍醐天皇を退位させ、娘の嫁いでいる天皇の弟を即位を企んでいる」とのことでした。

 これによって道真は北九州の大宰府に左遷されることになりました。当初から道真は無実を訴え続けており、宇多天皇もどうすることも出来ませんでした。当時は院政が始まっておらず、太上天皇は政治に関与する権限がなかったのです。

 結局、道真は大宰府に左遷されることとなり、そのときに詠んだとされる和歌が残っています。

「東風(こち)ふかば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」

 これは「東から風が吹いてきたら、その風にのせて(西にある)大宰府に香りを届けてくれよ。可愛がっていた梅の花よ、主人である私がいなくなっても、春を忘れてはいけないよ。」という意味です。

こうして九州に赴任した道真は、その2年後の903年に失意のうちに亡くなりました。

 しかし、道真の死から6年後、朝廷では重要人物の急死や天変地異が相次いで発生しました。

 まず、道真左遷の中心的人物であった藤原時平が39歳で急死しました。また、923年には醍醐天皇の皇子が死に、その次の皇子も若死にとなりました。

 さらに、ここから十数年間、洪水や大風、大火、渇水、疫病の蔓延など、天変地異が毎年のように続きました。

 そして930年には内裏に雷が落ち、数人の公卿と官人が焼け死ぬという前代未聞の災害まで起こりました。

最後は、道真の左遷を命じた醍醐天皇も重病で苦しみながら亡くなりました。

 宮中の役人たちはこれを道真の祟りとして恐れました。なにしろ、恨まれた人々が、いずれも道真左遷に関与した人物ばかりでピンポイントで変死していったのですから、恐怖は倍増しました。

「道真は雷の神様となって、現世に災いをもたらすようになったのだ。」

そして10世紀半ば、朝廷は道真の怨霊を沈めるために道真を右大臣に復位させ、京の北野に道真公を祀りました。京の北野では、以前から雷神(らいじん)の祭祀が行われており、道真も雷神として祀るべく神殿を建立したのです。これが現在も残る北野天満宮です。

 また、道真公の墓所に寺院が立てられた大宰府でも道真公を天神様として祀るようになり、後に神社に発展しました。これが大宰府天満宮です。

 こうした中で、道真は神号として天満大自在天神と呼ばれるようになり、この神号の最初と最後の文字から「天神」と呼ばれるようになりました。

 このように道真は大変有能な学者なだけでなく、遣唐使の派遣中止の建議を採用されるなど天皇の信頼も厚かった。その証拠に道真は学者の家の出身でありながら、右大臣にまで昇格した。

 しかし、そんな道真も嫉妬や妬みの対象となり、特に藤原氏の策略からは逃れることは出来なかった。

 一方で、藤原氏も道真に謀反の罪をでっちあげて一方的に左遷したことに後ろめたさを持っていたのでしょう。だからこそ、道真の死後数年経って、天皇や貴族に不幸が続くとそれを道真の祟りと考えるようになった。

 その後、道真公への信仰は1000年以上の時間をかけて、各時代の様々な思想や信仰を取り入れ、全国に普及していきました。そして現在、道真公は学問・文学・和歌・雪冤(無実の罪をはらす)などの神として信仰されています。

 

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

本当は怖い「平安京」観光案内 京都の闇 関裕二=著 講談社

図解 眠れなくなるほど面白い 神道  渋谷申博=著  日本文芸社

総図解 古代史      瀧音能之=著    新人物往来社

教科書よりやさしい 日本史   石川晶康=著     旺文社