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【平将門の乱】なぜ平将門は反乱を起こしたのか

こんにちは。本宮 貴大です。

平将門の乱】なぜ平将門は反乱を起こしたのか

 平将門といえば、平安時代中期に朝廷に対して反乱を起こした人物です。

 平将門といえば、東京都千代田区大手町にある首塚ですが、この首塚には様々な伝説があり、これを移動しようとすると、必ず祟りがあるので、いまだに大手町のオフィスビルの谷間に鎮座しています。

一体、どんな伝説なのでしょうか。

 今回は、そんな平将門がなぜ朝廷に反乱を起こしたのかをみていきながら、将門の伝説について紹介していきたいと思います。

将門は、武芸に優れており、国司や郡司の仲裁役を担うようになりました。しかし、人が好い性格の将門にはその役割を上手く果たせず、朝廷の反乱者になってしまいました。

 武士が歴史上に誕生したのは、9世紀のことです。743年の墾田永年私財法によって律令制度が崩壊し、全国に荘園が乱立しはじめると、開発領主(在地地主)は土地を守るために武器をとり、武装グループをつくるようになりました。これが武士団の発祥です。

 やがて武士団は、地方に賜った賜姓皇族や貴族を棟梁と仰いで集結し、大武士団を形成する。そして、淘汰の末、桓武天皇の血を引く平氏と、清和天皇の血を引く源氏が残っていくことになります。 

 将門が出生した年や場所は不明ですが、桓武天皇の曾孫の高望王の孫です。

高望王は、宇多天皇から平(たいら)の姓を賜って臣下となり、上総国(千葉県)の介に任命されて、東国に下りました。

高望王は4年の任期が過ぎても都に帰らずに上総国に住みつき、地方豪族のむすめを妻とし、血縁関係を結んで領地を増やしてきました。そんな高望王は3人の子供たちをもうけ、それぞれ国香(くにか)、良将(よしまさ)、良文(よしふみ)は成長すると下総国(千葉県北部及び茨木県南部)などに勢力を広げていきました。

下総国(千葉県北部及び茨木県南部)などに勢力を広げていきました。

その中の1人である良将の子供が将門でした。

 将門は青年のころは京の都へ上り、右大臣の藤原忠平に仕えながら朝廷の役人を目指しましたが、なかなか果たせず、父・良将も亡くなったこともあり、故郷の下総に帰りました。すると、父・良将の所領は伯父の平国香平良兼らに父・良将の所領を奪われていました。

将門は土地を奪回するために彼らに戦いに挑み、ついに国香を討って領地を取り戻した。

将門は巧みな騎馬戦術に長けており、これに対抗できる武士はいなかったのです。

しかし、この行動は朝廷に訴えられることになり、将門は京都に召喚されるも、朱雀天皇元服の恩赦で運よく故郷の下総に帰還することができました。

その結果、将門の武名は逆に天下に轟くところとなりました。

以後、将門は関東武士の信奉を集め、数々の紛争仲介役を果たすようになりました。

939年、武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県東部)の国司と郡司が領土問題で争っているのを仲裁しようとしました。

しかし、将門の仲裁は失敗し、むしろ国司から朝廷に訴えられることになってしまいました。

また、この頃、常陸国(茨木県)の国司と対立する藤原玄明に味方し、彼をかくまったため、国司からにらまれました。将門は成り行きまかせから、常陸国国衙を包囲。国司と武力衝突をした挙句、常陸国の公印と米倉の鍵を奪い、国衙を占拠してしまいました。

ここに、将門は朝廷の反逆者となってしまいました。

当時の関東人は朝廷からの重い税に苦しんでおり、朝廷からの独立を願っていました。将門はその願いを一手に引き受け、関東に武士による理想国家の建設を計画しました。

 この時点で将門は、朝廷に事情を説明し、降伏することも出来ました。しかし、将門はそうは考えませんでした。

 将門は朝廷の重税に苦しむ関東人から絶大な人気を得ており、将門による理想国家の建設を願っていました。

確かに、この当時、都では藤原氏北家が摂関家として権力確立のために奔走していました。つまり都の役人たちは自分達の権力獲得のことばかり考え、地方政治のことを蔑ろにしていたのです。

 

こうした支持を受けて将門は関東の独立を目指すようになりました。

「関東地方に朝廷に属さない独立政府を打ち立てるのだ。」

勢いに乗った将門は下野国上野国と次々に国衙を陥落させ、国司を追放し、部下達を新たな国司や官吏に任命していきました。

 

上野国国府では、巫女が現れ、「菅原道真の霊が将門に天皇の位を授ける」と告げました。

これを聞いた将門は自らを新皇と称するようになりました。

「私自身も桓武天皇の血を引く高貴な家柄の人物。天皇一族との違いはない。」

将門の勢いは止まらず、ついに関東全域を制圧する一歩手前まできました。

 

このいまだかつてない大規模な反乱に朝廷は驚愕しました。

ちょうど同じ頃、瀬戸内海では藤原純友が暴れていました。純友は伊予国愛媛県)の役人で、瀬戸内海で略奪行為をしている海賊軍団を沈めて功績をあげていました。しかし、朝廷は位を与えても、恩賞は与えなかったので、怒った純友は海賊たちの首領となり、939年から備前国播磨国国府を襲い、財産を奪い、さらには純友の生まれ故郷である伊予国国府さえも襲い、建物を焼き払いました。

東国と西国で朝廷への反乱がほぼ同じ時期に起きたので、朝廷では二人が示し合わせたのではないかと恐れていたとされています。

朝廷はこの反乱を一刻も早く鎮めるべく破格の恩賞を提示しました。

「賊軍の棟梁(将門・純友)を討った者は、身分に関わらず貴族(特権階級)にする。」

朝廷は将門のいる関東へ官軍を派遣したものの、鎮圧する自信はありませんでした。ここは腕のある地方武士や土着武士の力を借りるしかなかった。

翌940年、将門の討伐にかかったのは、父・国香を討たれて復讐に燃えていた常陸国平貞盛でした。貞盛は下野国押領使藤原秀郷を味方につけ、将門の討伐にかかりました。

将門は勇敢に戦いましたが、運悪く流れ矢が眉間に刺さったため、あっけなく討ち死にしてしまっていました。

さらに西国で反乱を起こした藤原純友も朝廷によって派遣された源基経によって追討され、九州の大宰府に逃亡するも朝廷軍に捕らえられ、処刑されました。

ここに武士の反乱は鎮圧されたのでした。しかし、武士という身分が侮れない存在であることが朝廷内に知れ渡りました。

一方で朝廷は、こうした武士達の力を逆に利用しようと考え、御所の警備や都のガードマンとして登用するようになり、いつしか彼らは貴族に「さぶらう」ことから侍と呼ばれるようになりました。

 

将門の宿願だった関東独立国家は、失敗に終わったわけですが、朝廷の権力に反抗した将門は東国の人々によって英雄として称えられ、その後に登場する武士達の守護神となりました。

そして、今回実現しなかった武士による関東独立国家は、この時から約250年後に成立する鎌倉幕府として現実化するのでした。

その後、将門を祀る社が各地につくられ、いつしか様々な伝説が生まれました。将門そっくりの影武者が7人いたという伝説や、京都に運ばれた将門の首が胴体を求めて空を飛んで東国に帰ったという伝説などです。将門の首が飛んできて、落ちた地は、現在の東京の大手町の首塚となっています。

また、現在、東京都千代田区外神田にある神田明神は、将門を神として祀る神社です。将門の霊は、後世、江戸の守り神として人々に敬われてきました。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

読むだけですっきりわかる 日本 後藤武=著   宝島社文庫

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

早わかり 日本史       河合敦=著 日本実業出版社