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【保元の乱】貴族社会はなぜ崩壊したのか【崇徳上皇】

こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【保元の乱】貴族社会はなぜ崩壊したのか【崇徳上皇】」というお話です。

1156年、上皇天皇の主導権争いが原因で貴族社会を崩壊へと導くことになった合戦が勃発しました。この合戦を当時の元号から保元の乱といいます。その対立構造と勝敗は以下の通りです。

勝利 敗北
弟・後白河天皇 兄・崇徳上皇
兄・藤原忠通 弟・藤原頼長
甥・平清盛 叔父・平忠正
子・源義朝 父・源為義

 白河天皇(第72代)は、上皇法皇となって政治の実権を握り、子の堀河天皇(第73代)、その子の鳥羽天皇(第74代)、その子の崇徳天皇(第75代)の3代にわたって「治天の君」と呼ばれ政界に君臨しました。
そして次の第76代天皇には、本来ならば、鳥羽天皇の第一皇子である崇徳天皇の子がなるはずでした。崇徳天皇鳥羽天皇の第一皇子でしたので、その根拠は真っ当でした。

 しかし、白河法皇の没後、実権を握った鳥羽上皇は、そんな通例を破ります。
崇徳天皇は突然、父・鳥羽上皇から皇位天皇の弟の躰仁(なりひと)親王に譲位するように迫られました。
突然の申し入れでしたが、崇徳天皇はこれを受け入れます。
「承知致した。しかし、皇位には、我が子である重仁親王としていただきますよう願います。」
以上を条件に崇徳天皇は、躰仁親王に譲位し、自らは上皇となりました。

 そして、1155年、17歳の躰仁(なりひと)親王近衛天皇(第76代)として即位するも、わずか半年で亡くなりました。
すると鳥羽上皇は、崇徳上皇との約束を破棄して、崇徳天皇にとっては同母弟である雅仁(まさひと)親王後白河天皇(第77代)として即位させました。
しかも、後白河天皇のあとは、その長男である守仁(もりひと)親王(後の第78代・二条天皇)が皇位継承者として皇太子に就きました。

 つまり、崇徳天皇の皇子は皇位継承を完全に無視されたカタチとなってしまったのです。崇徳上皇はこの非常なやり方に強い不満と恨みを抱きました。

 しかし、鳥羽上皇崇徳天皇を冷遇したのには理由がありました。
実は、鳥羽上皇にとって崇徳天皇は、自分の后である藤原璋子に白河法皇が生ませた子であると考えられていました。白河法皇は、鳥羽上皇にとっては祖父にあたります。つまり、崇徳天皇白河天皇の不倫によって生まれた子だとされていたのです。
したがって、鳥羽上皇にとって崇徳天皇は「我が子にして、祖父の息子(叔父)」ということになり、鳥羽上皇を崇徳のことを「叔父子(おじこ)」と呼んでいました。

 そもそも、崇徳を天皇にしたのは、白河法皇であり、鳥羽上皇の意志ではありません。
しかし、鳥羽上皇が崇徳をあざむくカタチで譲位させたのは、失敗でした。これによって保元の乱という大乱が起こり、貴族社会の崩壊が始まるきっかけとなったからです。貴族社会は不倫問題がきっかけで、その基盤が崩れはじめたのです。

 一方、朝廷では摂関家でも内紛が起こっていました。関白・藤原忠通とその弟である藤原頼長が、氏長者(うじのちょうじゃ)の地位と関白職をめぐり険悪な状態に陥っていました。両人の父親は藤原忠実という人物ですが、白河法皇のとき、忠実は院と反りが合わず、関白の職を長男・忠通に譲り、自らは宇治に引退しました。しかし、鳥羽上皇院政になると再び出仕し、才識に優れていた次男・頼長を寵愛し、忠通から関白職を奪うために頼長を氏長者としたのでした。
 これに対し、忠通は近衛天皇の死は、忠実・頼長が呪いをかけたからだと噂を広めました。これを聞いた鳥羽上皇後白河天皇は激怒し、忠実と頼長を嫌うようになると、後白河天皇と忠実は強く結びついていきました。
 一方、忠実と頼長は失意のうちにあった崇徳上皇と結びつきました。
こうして上皇天皇の権力争いに、藤原氏の権力争いが加勢し、後白河天皇藤原忠通に対し、崇徳上皇藤原頼長という対立構造が出来上がりました。

 そして1156年、法皇となっていた鳥羽法皇が亡くなると、それまでのパワーバランスが崩れ、牽制し合っていた両陣営の対立が激化しました。
両者は互いに武士を手元に集めました。崇徳上皇平忠正源為義を召せば、それに対抗するように後白河天皇平清盛源義朝を招き入れる。
しかし、互いに招集された忠正と清盛は叔父と甥、為義と義朝は父子関係にありました。武士達にとっては身内同士が互いに潰し合うことになってしまったわけですが、雇い主(貴族)に逆らうわけにはいきません。
 この時代は、まだ主導権は貴族側にあったのです。しかし、権力争いの勝敗は武力によって解決するという実力主義の風潮も強まっていました。保元の乱とは、まさに貴族社会と武家社会の過渡期に起きた内乱といえるでしょう。

 こうして鳥羽法皇の没後、一週間足らずのうちに保元の乱が勃発するのでした。
1156年7月11日未明、京都東北部の白河(左京区)で、源義朝平清盛の率いる後白河天皇の軍勢600人が、崇徳上皇の住まい(白川殿)に夜襲攻撃を仕掛け、殿内はたちまち大混乱となりました。
崇徳上皇側は、為朝と為義の率いる1000人で迎え撃ちました。天皇側と上皇側は激しく戦いましたが、上皇側の為朝の活躍もあり、天皇側は一時苦戦を強いられました。しかし、夜明け後の午前8時頃、白河殿に火が付くと瞬く間に燃え広がり、上皇軍は総崩れとなり、正午には天皇側の勝利に終わりました。

 保元の乱の戦後処理は極めて厳しいものとなりました。810年の薬子の変以来、200年以上執行されていなかった死刑が復活したのです。仏教を厚く信仰する平安貴族にとって、仏罰や怨霊は非常に恐ろしいものであり、人を処刑するという行為は実施されませんでした。

 しかし、今回の乱は武士という仏罰や怨霊を信じない輩が介入したため、捕らえらえた首謀武士たちは次々に処刑されました。
討ち死にとなった頼長を除いて、平忠正源為義・為朝は京都の六条河原という処刑場で処刑され、崇徳上皇讃岐国香川県)に流されました。
崇徳上皇はその後、讃岐でおだやかに写経を始めました。そうして完成したものを京都の朝廷に送りました。
「このまま死ぬのは嫌だ。死は怖い。極楽浄土への往生を願って写経を送るので、どうか納めてほしい。」
しかし、朝廷は崇徳の写経を送り返しました。
これに激怒した崇徳は自分の舌を噛み切り、その写経に血で呪いの言葉を書き込みました。
「大魔王となり、天皇家を呪ってやる。」
そう言い残した後、崇徳は爪や髪や髭が伸び切った状態で亡くなりました。

 この崇徳上皇の怨霊によって、貴族社会が崩壊し、武士社会が始まったとも言われています。この乱に勝利した藤原忠通の子で、僧となった慈円は著書『愚管抄』の中で「保元の乱以降、乱世がはじまり、武者の世となり、摂関の威勢は地に落ちた」と述べています。

 実際に、この乱の3年後、再び争いが勃発します。これが平治の乱です。以後も貴族間の政争に武士が介入するようになり、そのたびに処刑も多発します。その様相はまさに、崇徳上皇の怨霊が具現化したようにも思えます。
崇徳上皇の怨霊は、平将門菅原道真と並んで現在も日本三大怨霊として怖れられています。

 さて、今回の記事のまとめですが、保元の乱は、貴族同士の争いに武士の戦闘力が利用されたものでしたが、乱の結果、武士というものが、その後の政界をも左右出来るほどの力を持った存在であることを知らしめる結果となりました。これまで武士が朝廷の命令で組織されることはあっても、このようなカタチで直接朝廷の内紛決着に利用されるのは、初めてのことでした。

 以後、貴族間だけでは解決できそうにない政争を、武士に頼るようになったことで、平氏政権や鎌倉政権の誕生を招いてしまいます。貴族社会はささいな天皇の不倫疑惑によって、その崩壊が始まったのでした。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献
いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】  東洋経済新報社
日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社
テーマ別だから理解が深まる 日本史 山岸良二=監修 朝日新聞出版
早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社
よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC