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【奥州藤原氏】なぜ壮麗な平泉文化が生まれたのか【藤原清衡】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【奥州藤原氏】なぜ壮麗な平泉文化が生まれたのか【藤原清衡】」というお話です。

「掘れども尽きない黄金の山がある。その地の宮殿は屋根まで黄金だった。」

 これは13世紀半ば、イタリアから中国を旅したマルコ=ポーロの『東方見聞録』の中にある「黄金の国ジパング」についての記述です。日本には豊富な砂金が手に入る金鉱山が存在しているというのです。

 その金鉱山とは、玉山金山(岩手県陸前高田市)をはじめとする奥州(東北)地方各地にあり、黄金屋根の宮殿とは、中尊寺金色堂のことだと考えられています。

 東北地方は古代から「陸奥山に金花咲く」といわれたほどの金の産地であり、その莫大な奥州金の産出量は、朝廷の中国貿易の決済をまかなわれていたという。

 そんな東北地方一帯を支配下に置いたのは、奥州藤原氏で、12世紀初頭から清衡、基衡、秀衡の3代で約100年続きました。その背景には、同地で砂金が豊富に産出されたことにあります。

 ということで、今回は、奥州藤原氏の祖先や、その発展経緯を見ていきながら、「なぜ壮麗な平泉文化が芽生えたのか」についてみていきたいと思います。

東北の2大首長である安倍氏清原氏の流れを組む藤原清衡は、後三年合戦を制したのち、奥州藤原氏として東北地方全土を配下に置きました。以降、奥州藤原氏は奥州産の黄金や名馬などの資源を背景に、京に次ぐ大都市・平泉と、壮麗な平泉文化を完成させました。

 奥州藤原氏の祖先は、平将門の乱をしずめた功績により、下野国(栃木県)の国守となった藤原秀郷と言われています。

 その秀郷から4代目の藤原経清陸奥国の国守・藤原登任にしたがって、陸奥国に赴いたことが奥州藤原氏の東北進出のきっかけでした。

 かつて東北には、蝦夷の2大首長として陸奥国の豪族・安倍氏出羽国の豪族・清原氏が君臨していました。

 経清は陸奥国安倍氏のむすめを妻とし、後に奥州藤原氏の初代となる藤原清衡が誕生しました。しかし、経清は安倍氏が起こした12年におよぶ前九年合戦安倍氏側につき、朝廷から派遣された源頼義・義家父子によって敗死しました。その後、清衡は母が再婚した出羽国の豪族・清原氏の養子として迎えられ、姓名も清原清衡となりました。

 しかし、そんな清衡が異父弟の家衡と家督争いをするようになると、これが清原氏一族の内乱へと発展します。

 前九年合戦の功績から陸奥国の国守となっていた源義家は清衡側につき、東国武士団を率いて清原氏を撃破しました(後三年合戦)。

 こうして陸奥守の義家が勅命によって東北を引き払うと、新しい国司として清原清衡が東北の実権を掌握しました。

 清衡はその安倍氏の娘を母とし、清原氏の養子でもあったので、血統的にも東北の王たるに十分な資格を備えていました。そして清衡は、もともと父方の姓であった藤原に復し、藤原清衡を名乗るようになり、北上川と衣川の合流する平泉の地に、その拠点を構えました。

 こうして「未開の蛮地」と朝廷から蔑まれてきた東北の地が、都をしのぐほどの高度な文化圏として築きあげられていくのでした。これが奥州平泉文化の始まりです。

 

 先述の通り、東北には豊富な砂金が採れる金鉱山がありました。また、奥州は「名馬の産地」でもあり、奥州産の馬は、大きく丈夫なうえに、足も速いとして全国の武士たちにとって羨望の的でした。

 これらの資源を背景に財力を固めた奥州藤原氏の初代・清衡は卓越した政治家でした。

 まず、先祖のように武力で朝廷に抵抗はせず、時の関白・藤原師実に奥州産の名馬を献上するなど、巧みに権力者たちを籠絡し、自分の奥州支配を黙認させました。その結果、東北の黄金すべてが、朝廷に搾取されることなく、清衡の自由となりました。

 清衡は、熱心な仏教徒でもあり、前九年合戦で亡くなった人達を供養し、奥州の地に戦争のない平和な社会が訪れることを願いました。1105年、清衡は採掘された黄金をふんだんに使い、平泉中尊寺の造営に取り掛かりました。1124年には中尊寺金色堂が完成しました。金色堂は三間四方の小さな建物ですが、四壁から屋根にいたる全てに金箔が施され、須弥壇には33体の黄金仏が安置されおり、平泉文化の最高の建築物として現存しています。

 2代目・基衡は、天台宗の僧・円仁が開いたという毛越寺(もうつうじ)に多くの堂塔を造営して再興し、浄土の世界(阿弥陀仏様が住む清らかな世界)を再現したとされる華麗な庭園をつくりました(毛越寺庭園)。

 3代目・秀衡は、京から技術者を呼び寄せ、宇治(京都)の平等院鳳凰堂を模倣し、それを上回る規模の無量光院(むりょうこういん)を建立しました。

 こうして平安時代末期に、東北の平泉の地に京に次ぐ大寺院が立ち並ぶ壮麗な仏教文化が花開いたのです。

 平泉の町の通りには、大きな建物や倉が立ち並び、牛車も往来し、全盛期には人口10万を超え、活発な経済活動が行われていたことが分かっています。これは京に次ぐ大都市であり、その全盛期は3代目・秀衡のときで、ついに朝廷は秀衡の実力を認め、1170年に鎮守府将軍、1181年には陸奥国の国守に任命しています。

 しかし、そんな栄華を極めた平泉王国は、4代目・泰衡のときにその状況が一変してしまいます。

 源義経をかくまったことで、1189年に源頼朝からの引き渡し要求を拒み続けたことを口実に頼朝軍に攻め込まれてしまいました。

 頼朝の要求に屈した泰衡が、義経を自害に追い込み、その首を引き渡したものの、時すでに遅し。28万もの東国武士団を率いて攻め寄せる頼朝軍になす術なく惨敗。泰衡は家臣の造反にあって殺され、奥州藤原氏は滅亡しました。

 

 さて、今回の記事のまとめですが、かつて「未開の蛮地」として蔑まれてきた東北の地を支配した奥州藤原氏は、奥州産の金と名馬によってその財力を強め、壮麗な仏教文化を誕生させました。しかし、そんな平泉文化は、にわかに眩しい光を放ったかと思うと、金色堂のみを残して、あっさりと消えていきました。

 奥州藤原氏3代のミイラは現在も中尊寺金色堂須弥壇の下に安置されています。3代目・秀衡のミイラを調査した結果、彼は60歳を超えており、血液型はAB型で、アイヌ民族の衣装を着ているものの、肉体的には日本人であると判明しています。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

テーマ別だから理解が深まる 日本史 山岸良二=監修 朝日新聞出版

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社