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【どう違う?】源氏と平氏

こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【どう違う?】源氏と平氏」というお話です。
元来、源氏も平氏も皇室から分かれた家系であり、天皇家に近い高貴な人たちに仕える身分でした。
そんな源氏も平氏平安時代中期以降に多発した地方での反乱や相続争いなどの内乱を貴族に代わって内乱を鎮圧し、その功績から勢力を強めていきました。

源氏 平氏
清和天皇の子孫 桓武天皇の子孫
東国で勢力を拡大 西国で勢力を拡大
関東独立を目指す 朝廷や院と結びつく

清和源氏では、源経基藤原純友を討伐し、その子の満仲は安和の変で功績を挙げます。その子の源頼信は房総半島を中心とする平忠常の乱を平定し、その子の源頼義は前九年合戦で功績をあげ、その子の源義家は後三年合戦で功績を挙げました。これによって清和源氏は東国における支配を確立しました。

 源氏の祖先は、9世紀半ばに即位した清和天皇の孫で臣下として源の姓を賜った源基経という人物にはじまり、この系統を清和源氏といいます。
 経基は939年に藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて起こした反乱を鎮め、その功績から武蔵国信濃国などの国司を歴任する軍事貴族へと出世しました。
軍事貴族・・・・武芸を専門とする中・下級貴族。)

 ここから清和源氏は代々武功を重ねて着実にその勢力を強めていきます。

 経基の子である源満仲は969年の安和の変藤原北家の他氏排斥の陰謀に加担し、満仲は藤原北家摂関家)に認められ、軍事貴族として畿内に土着することを許されました。
 そんな満仲には源頼光、頼親、頼信という3人の息子がおり、均分相続によって摂津に土着した長男・頼光の家系を摂津源氏、大和に土着した次男・頼親を大和源氏、河内に土着した三男・頼信を河内源氏とそれぞれ称するようになりました。

 この河内源氏源頼信は1028年に平忠常上総国(房総半島・千葉県中部)の国府を占領したことで起こした反乱を鎮め、武功を挙げました。これによって平氏の関東での勢力は潰え、代わりに源氏が関東における勢力を植え付けていきます。
 頼信は平忠常の乱を鎮圧した功績から東国諸国の国守をつとめるようになり、東国の武士と主従関係を結ぶようになりました。
 
 そんな頼信の子・源頼義は朝廷から東北征伐を命じられ、手柄を立てます。この東北征伐とは1056年~1064年の9年間に及ぶ前九年合戦です。東北地方で安倍氏が朝廷に対して起こした反乱を起こしたのです。このとき、頼義に従って戦ったのが頼義の子・源義家でした。この頼義・義家父子は東国の武士を従えて大変苦戦を強いられながらも何とか反乱を鎮めました。
 
 それからおよそ2年後、またも東北地方で1086年~1088年の3年間に及ぶ後三年合戦が起こりました。安倍氏の滅亡後、前九年合戦で頼義・義家父子を助てて戦った清原氏安倍氏に代わって奥州で勢力を伸ばしていたが、この清原氏に内紛が起きたのです。義家は東国の武士団を率いてこの内紛を平定しました。

 しかし、この2つの合戦における朝廷からの恩賞は不十分なものでした。
 前九年合戦では頼義は伊予国の国守を拝命したものの、他の功労者には恩賞がなかった。そこで頼義が朝廷に代わって自らの財産を切り崩し、功労者たちに分け与えました。頼義から恩賞をもらった豪族(武士)たちは感激しました。
 後三年合戦の場合は、豪族間の私的な内乱に過ぎないとして恩賞はおろか、朝廷は戦費さえも出そうとしませんでした。
そこで、義家は自腹で功労者へ恩賞を与えました。これによって、東国武士たちの義家に対する信望は非常に高いものとなり、義家と主従関係を結ぶ武士が多く現れ、土地を寄進する者も多く出てきた。

 この戦いのあいだに、源氏は東国の武士団との主従関係を強め、東国での地位を固めました。1098年、義家は白河法皇から院の昇殿を許されて、源氏が中央政界にも進出することが出来ました。

 しかし、あろうことか義家の子・義親が九州で朝廷に対して反乱を起こしてしまいました。乱は平正盛によって追討されましたが、源氏の面目は丸つぶれとなり、源氏は中央政界から大きく退けられる結果となりました。中央政界に足場を失った源氏は、関東への支配力を強めます。義親の子・源為朝は相模に居住して、東国武士との主従関係をより確固たるものとし、源氏の勢力の立て直しを図り、関東に地方に盤石な勢力を築き上げました。そして為朝の子・源義朝平治の乱伊勢平氏平清盛と雌雄を決するのでした。

以上が清和源氏のはじまりと台頭したきっかけでした。

次は桓武平氏を見ていきます。

桓武平氏では、平貞盛が同族の平将門の乱を平定し功績をあげます。以後、平氏は伊勢を根拠地として勢力を拡大し、関東で勢力を強める源氏を苦々しく思っていた院と結びつきます。白河院政と結びついた平正盛源義親の乱を平定し、その子・平忠盛鳥羽院政と結びつき、瀬戸内海の海賊征伐で武功を挙げます。さらにその子・平清盛後白河院政と結びついて保元・平治の乱を制した後、政権を握るようになりました。

 平氏の祖先は、桓武天皇の子孫である高望王が臣下として平の姓を賜り、関東に土着したことにはじまり、この系統を桓武平氏と言います。

 高望王の孫の平将門が939年に関東で反乱を起こしますが、これを鎮めたのは同じく高望王の孫の平貞盛でした。この功績から貞盛は朝廷に伊勢国に土着することを認められ、伊勢平氏と称するようになりました。

 以降、伊勢平氏は貞盛・維衡・正度・正衡と代を経るごとに勢力を拡大していきました。
 
 一方、関東で培った平氏の勢力は、1028年の平忠常の乱後、源氏に取って代わられ、平氏一族は四散し、関東に残った平氏は源氏の家来となっていきました。後に鎌倉幕府で執権を担う北条氏も元来は平家だったが、源頼朝の後ろ盾となり、源氏とともに平氏と戦うのでした。

 平氏と源氏が台頭する一方、中央政界では藤原氏外戚に持たない後三条天皇が現れました。1086年、後三条天皇の子・白河天皇皇位をわずか8歳の堀河天皇に譲って上皇となり、天皇に代わって政務を執る院政が始まりました。

 伊勢平氏平正盛のころ、この院政と結びついてその権力を確固たるものとしていきました。正盛は伊勢・伊賀に所領を広げ、白河上皇が建立した六条院のために所領を寄進したことで、院のボディガードである北面の武士に登用され、院と結びついていきました。この時代、院と同等かそれ以上の権力と財力を持った大寺院が僧兵と組織し、強硬な態度で自らの要求を通そうとする強訴を繰り返したため、院も直属の武士団としての北面の武士を組織し、ボディガードとしたのです。

 また、院にとっても平氏を取り立てるのはメリットがありました。院は後三年合戦ののち、多くの土地を寄進されて急速に勢力を伸ばしつつあった源氏を苦々しく思っており、そんな源氏を排除するために、積極的に平氏を取り立てたのです。以降、平氏の中央政界進出は加速していきます。

 因幡国鳥取県東部)の国守となった正盛は1107年に出雲国島根県東部)で源義親が起こした反乱を追討して武名を挙げます。これによって源氏は朝廷や院など中央政界における勢力を失い、一方で平氏は中央で勢力を伸ばしていきました。源氏が東国を中心に勢力を強めていくのに対して、平氏は西国や瀬戸内海地方を中心に勢力を強めていったのです。

 正盛の子・忠盛も白河法皇に気に入られ、美作国播磨国兵庫県南部)などの国司を歴任して富裕となり、軍事貴族としてしばしば瀬戸内海の海賊を追討して武功を挙げ、また興福寺奈良県)などの僧兵の強訴をおさえるなどの活躍をしました。1132年には鳥羽上皇に昇殿を許され、忠盛は鳥羽上皇の近臣として西国の国司を歴任するなどの活躍をします。

 そして忠盛の子・清盛は後白河上皇の近臣として取り立てられ、保元の乱を制し、そして平治の乱源義朝と雌雄を決するのでした。
今回は源氏と平氏の誕生とその台頭背景についてご紹介しました。
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
参考文献
いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】        東洋経済新報社
よくわかる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著 WAC
日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社
テーマ別だから理解が深まる 日本史 山岸良二=監修 朝日新聞出版