【どう違う?】前九年合戦と後三年合戦
こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【どう違う?】前九年合戦と後三年合戦」というお話です。
前九年合戦と後三年合戦は、源氏の東国支配の基盤を固めたきっかけとなった合戦ですが、その合戦はなぜ起こり、そして源氏はなぜ東国支配の基盤を高めることに成功したのでしょうか。今回はそれを見ていきながら、2つの合戦の違いについて学習していこうとおもいます。まず、両合戦の違いのまとめを確認してから本文に入りましょう。
前九年合戦
期間:1056年~1064年までの9年間
結果:源頼義・義家父子が東国武士団を率いて勝利
後三年合戦
期間:1086年~1088年までの3年間
原因:奥羽の清原氏の内紛
それでは本文にはいります。
源頼義・義家父子の活躍によって源氏は東国での名を高めました。頼義は前九年合戦で陸奥の安倍氏の反乱を鎮定し、頼義の子・義家は奥羽の清原氏の内紛に介入し、藤原清衡とともに後三年合戦に勝利しました。藤原清衡はその後、平泉(岩手県)を根拠地として奥州藤原氏として栄えていきます。
平安時代初期の811年、東北地方の蝦夷は朝廷軍に征伐され、東北地方の日本海側を出羽国、太平洋側を陸奥国として平定されました。
そんな東北2国ですが、出羽国には清原氏が、陸奥国には安倍氏がそれぞれ有力な土着豪族として勢力をふるっていました。
東北は、蝦夷平定以後、現地の支配は土着豪族に任せており、鎮守府将軍や国司(国守)は現地に赴かない遥任であることが多かった。したがって、現地の豪族が勢力を拡大しやすかったのです。
そんな東北で、まだ畿内でも起こっていないような大規模な合戦が起こりました。
1051年、陸奥国の豪族・安倍頼時が国司の命令に従わなくなり、朝廷への貢物などを怠るなど、反抗的な態度をとるようになりました。
これに対し、朝廷は官軍を陸奥国に派遣し、陸奥国の国司・藤原登任に安倍氏を征伐するように命じました。しかし、地元だけに阿部氏は強く、結果は安倍氏の圧勝に終わりました。
そこで朝廷は、1051年に源頼義を陸奥守及び、鎮守府将軍に任命し、頼義の子・義家とともに陸奥国に派遣しました。これを前九年合戦と呼んでいます。
源頼義・義家父子は、東国で勢力を伸ばしつつあった清和源氏の血統で武勇の誉れ高い武将で、精力的に安倍氏と戦いました。頼義・義家父子の征討にあった頼時は一旦、降伏するも、1056年に再度叛(はん)しました。頼時自身は翌1057年に戦死するも、子の安倍貞任らがよく戦い、頼義・義家父子は苦戦を強いられました。
しかし、頼義・義家父子には官軍として大義が立っており、出羽国の豪族・清原氏を味方につけることに成功し、清原武則らの支援を受けて、ようやく貞任を倒し、勝利しました。
前九年合戦は実際には足かけ12年にわたっているが、頼時が2度目の叛した1056年から頼義が京都に凱旋した1064年までを数えて9年間に及んでおり、前九年合戦と呼んでいます。
このように苦戦を強いられながらも何とか陸奥国を平定した頼義・義家父子でしたが、朝廷からは十分な恩賞は与えられませんでした。それでも頼義は伊予国の国守を拝命し、義家は出羽国の国守を拝命し、清原武則は鎮守府将軍に任じられ、清原氏は安倍氏の旧領も含めて東北(奥羽)に強大な勢力を持つようになりました。
しかし、前九年合戦では他にも功労者がたくさんいるにも関わらず、彼らには恩賞がなかった。そこで頼義が朝廷に代わって自らの財産を切り崩し、功労者たちに分け与えたのです。恩賞をもらった豪族(武士)たちは感激しました。
これによって東国の豪族たちの源氏への忠誠心が強まり、源氏は東国武士団の棟梁としての地位を固めました。
そして、前九年合戦からおよそ2年後、奥州で強大な勢力を持った清原氏の一族内で分裂が起こりました。
陸奥守・源義家は藤原清衡をたすけ、配下の武士団を率いてこれを平定しました。これが後三年合戦です。
なぜ清原氏一族に内紛が起きたのでしょうか。藤原清衡の父は前九年合戦で安倍氏に味方した藤原経清の子で安倍氏とともに敗死し、清衡は清原武則の子・武貞の養子として迎えられ。清原清衡と改名しました。清衡は当初、武貞の子・真衡と争ったが、真衡が死ぬと、今度は異父弟の家衡と対立するようになり、これが清原氏の内乱へと発展したのです。
乱は1083~1087年にかけて起こったが、義家が乱に関わった1086年から京都に凱旋した1088年までの3年間から後三年合戦と呼ばれるようになりました。
乱を平定した義家は、朝廷に奥州平定を報告し、恩賞を願ったが、朝廷はこの乱は豪族間の私的な内乱に過ぎないとして恩賞を与えず、それどころか戦費さえも出そうとしませんでした。
そこで、義家は自腹で功労者へ恩賞を与えました。
これによって、東国武士たちの義家に対する信望は非常に高いものとなり、義家と主従関係を結ぶ武士が多く現れ、土地を寄進する者も多く出てきた。その勢いはすさまじく、1091年に朝廷が義家への荘園寄進を禁止したほどでありました。
また、清衡はもともと父方の姓であった藤原に復し、平泉(岩手県)を根拠地に、子・基衡、孫・秀衡の3代にわたり、奥州を支配することとなりました。これを奥州藤原氏といいます。その栄華は平泉の中尊寺金色堂に現在も残されています。
今回は、源頼義・義家の2代でわたって平定された前九年合戦と後三年合戦の2つの乱を紹介しましたが、これによって源氏は関東地方の有力豪族のほとんどを味方につけることに成功しました。もともと関東には下総国を根拠としていた平将門のように平家もいました。しかし、頼義・義家父子が2代続いて関東の豪族を率いて奥州を平定したため、平家の系統でも源氏の恩賞を受けた者も多かった。あの北条氏も元来は平家でしたが、やがて源頼朝の後ろ盾となって源氏とともに戦うことになるのです。
以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】 東洋経済新報社
よくわかる!読む年表 日本の歴史 渡部昇一=著 WAC
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社