【摂関政治2】阿衡の紛議をわかりやすく【藤原基経】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【摂関政治2】阿衡の紛議をわかりやすく【藤原基経】」
9世紀の後半に起きた応天門の変で、政界のライバル伴氏を追い落とした藤原良房は、9歳で即位した幼少の清和天皇に代わって政治の実権を握り、摂政に就任したことで、藤原氏北家による摂関家としての政治体制を確立しようとしました。
良房の後を継いで天皇家以外で初めて関白の地位を得たのは藤原基経でした。
良房の地位を継いだ藤原基経は、良房同様に外戚政策を展開し、陽成天皇を擁立します。そして陽成天皇を退位させた後に光孝天皇をたて、関白としての地位を事実上得ます。光孝天皇の子の宇多天皇に、基経は正式に関白になりました。しかし、ある問題から宇多天皇と基経は仲違いし、藤原氏の摂関家としての地位が危ぶまれることになるのでした・・・・。
藤原基経は良房の兄・長良の子供でしたが、良房の養子となりました。基経は応天門の変のときは、蔵人頭として、清和天皇と太政大臣・良房のあいだにいて活躍していました。その後、参議、中納言、大納言を経て右大臣にまで出世しました。
876年、清和天皇が皇位を譲り、基経の妹・高子の皇子で9歳の陽成天皇が即位しました。陽成天皇の9歳での即位は、清和天皇の即位時の年齢と同じでした。
しかし、陽成天皇は落ち着きがなく、宮中で剣を振り回して遊ぶなど異常な振る舞いが目立ちました。
そこで基経は、陽成天皇を退位させ、代わりに自分の意のままに動く55歳の光孝天皇を即位させました。
天皇家では傍系で、しかもこんな高齢で天皇になれると思っていなかった光孝天皇は嬉しい反面、どのように政治を動かしたらよいかわかりませんでした。
つまり、基経の計算通りでした。これによって基経は事実上、関白の地位を得ることが出来ました。
光孝天皇の死後、基経は光孝天皇の皇子で臣下になっていた源定省(みなもとのさだみ)を親王とし、親王を皇太子に立てた後に宇多天皇として即位させました。
21歳の宇多天皇は朝廷内に命じました。
「政治の重要な決まりごとは基経に関(あずかり)り白(もう)せ」
この命によって、基経は天皇を補佐する関白の地位に正式に就任したのでした。
しかし、基経は関白を辞退しました。
これは慣習によるもので、臣下たるもの、天皇からの名誉ある職に任命されたときには一旦、辞退するという形式的な作法がありました。そのうえで、天皇が再度任命することで、臣下はそれを承諾するというのが古来日本の慣例でした。
しかし、この基経の辞退を真に受けた宇多天皇は基経に新たな職に任命しました。
「それならば、基経殿、そなたを阿衡の職に任命する。」
これに基経は激怒しました。というより、むしろ行間の読めない宇多天皇に対する呆れの方が強かった。
そして基経は「阿衡は、単なる名誉職に過ぎず、政務の実権はありません。」という理屈をつけて一切の政務をみませんでした。
このとき讃岐国の国守であり、現在では学問の神様として有名な菅原道真がたまたま都に来ており、事情を知った道真は基経を諫めました。
「陛下は、まだ未成熟であるゆえ、間違えも起こします。」
しかし、基経は宇多天皇が、自ら阿衡の職を撤回するまで様子を見ることにしました。
結局、困った宇多天皇は基経の阿衡の任命を撤回し、基経を改めて関白に任命しました。この一連の揉め事を阿衡の紛議といいます。こうして基経は天皇家以外の家系としては初となる正式な関白の地位を得ました。
そして、891年に基経が死ぬと、摂政・関白の地位は子の藤原時平が受け継ぐかに思われました。
しかし、宇多天皇は関白を置かず、時平を参議に任命し、菅原道真を重く用いるようになりました。
そして、宇多天皇は元服した醍醐天皇に譲位する際、左大臣には時平を任命し、右大臣には道真を任命した。
「政治の重要な決めごとは道真に相談するように」
宇多天皇は阿衡の紛議において、いくら自分のミスとはいえ、基経が政務を放棄したことには強い不信感を抱いていました。そんな中、基経を諫めた菅原道真を宇多天皇は高く評価していました。したがって、基経の子・時平よりも道真を通じて政治を運営しようとしたのです。
そう、つまり藤原北家の摂関家としての地位は一時的ですが、危ぶまれたのです。
しかし、これに醍醐天皇、左大臣・時平や多くの貴族たちが反発したことで、菅原道真の悲劇が起こるのでした。
以上。
参考文献
聞くだけ日本史 古代~近世 東京大学受験日本史研究会
総図解よくわかる 古代史 瀧音能之=著 新人物往来社
教科書よりやさしい 日本史 石川晶康=著 旺文社