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【摂関政治1】藤原良房のたくらみとは【藤原良房】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【摂関政治1】藤原良房のたくらみとは【藤原良房】」というお話です。

 平安時代を代表する政治体制のひとつに摂関政治があります。摂関政治とは、摂政と関白が政治を行うことですが、摂政とは、天皇が女性か子供のときに、天皇に代わって政治を行う役人のことを指し、関白とは、成人男性である天皇の代わりに政治を行う役人のことをいいます。

 摂政といえば、かつて聖徳太子厩戸皇子)が推古天皇の摂政として政治を補佐したのは有名ですが、彼は推古天皇の甥であり、要するに天皇家の役人でした。

 しかし、今回紹介する藤原良房という人物は、天皇家以外の家系から初めて摂政に就任した人です。

 この藤原氏のような摂政や関白を輩出する家系を摂関家といいますが、今回はそんな藤原良房が摂政に就任するまでのストーリーを見ていくようにしましょう。

 

藤原冬嗣の子・藤原良房は、嵯峨上皇の没後、橘速勢などを排斥し(承和の変)、娘が産んだ清和天皇を立て、外戚として権力を確立しました。しかし、この時点での良房は「太政大臣」の地位にあり、律令制において「太政官」には、天皇の代わりに政治を行うとする「摂政」として規定はありませんでした。

 薬子の変嵯峨天皇を守り、蔵人頭として活躍した藤原冬嗣は、次の仁明天皇に娘・順子を嫁がせ、天皇家外戚(母方の祖父)として権威を確立しました。ここから藤原氏北家は勢力を増していくことになりました。

 冬嗣の子・良房も嵯峨天皇に才能を認められ、側近として仕えるようになりました。その後、仁明天皇が即位すると良房は蔵人頭となり、参議から中納言へと昇格しました。

 そんな中、842年、仁明天皇の皇子で皇太子でもある恒貞親王の側近として活躍していた伴健岑や橘速勢が皇太子を立てて謀反を起こし、兵を挙げようとしているという密告が入りました。

 この密告を受けた朝廷では、良房が中心となり、素早い対処がなされました。

 健岑と速勢は捕らえられ、流罪に処せられた。さらに、恒貞親王は皇太子を辞めされられ、代わりに良房の妹・順子の産んだ子供・道康親王(後の文徳天皇)が皇太子にたちました。これを承和の変といいます。

 しかし、この事件は良房のたくらみだったといわれています。良房はこの事件を利用して、対立勢力を追い出し、身内の皇子を天皇にさせることで、外戚としての権力を確立しようとしたのです。

 857年、良房は太政大臣に就任しました。翌858年、文徳天皇が亡くなり、娘の明子が産んだ皇子が9歳で清和天皇として即位すると、外戚として幼い天皇の代わりに政治をみました。つまり、この時点で良房は、事実上の摂政の地位についたのです。

 しかし、このときの良房の役職は「太政大臣」であり、当時の律令制では幼い天皇の代わりに政治を行うという摂政としての職務は規定されていませんでした。

良房は、応天門の火災の事件処理のさい、清和天皇から勅命を受け、正式に摂政の地位を得ました。この応天門の変を理由に伴義男親子は排斥され、対抗勢力がなくなった藤原氏北家はその後、摂関政治としての体制を確立していくのでした。

 866年3月、平安京にある朝堂院の正門(応天門)が、何者かの放火によって炎上する事故が起きました。応天門は国家の重要な儀式を取り仕切る大極殿のある大内裏のシンボルともいうべき門で、焼け落ちた衝撃は大きかったです。

 早速、犯人の詮索が始まりました。

 当初、大納言・伴義男が、犯人は嵯峨天皇の皇子で左大臣源信であると訴えた。伴義男と源信は、ライバル同士で、互いに地位をめぐって互いに争っていました。

しかし、太政大臣藤原良房のとりなしによって、源信の取り調べは保留とされました。

 その後、犯人不明のまま8月となり、事件は急展開をみせました。

 ある下級役人から「伴大納言父子が応天門に放火しているのを偶然見た」という訴えがあったのです。

 都中を騒がす事件の収拾のため、元服したばかりの清和天皇は良房に命じました。

「天下の政を摂行せしむ」

 この命によって、良房は清和天皇の摂政として政治の実権を握りました。天皇家以外の家系としては初の摂政の誕生でした。

 摂政となった良房は、応天門の放火事件の収拾を急ぎました。

 容疑をかけられた伴義男親子は取り調べを受け、厳しく尋問をされつつも、最後まで無実を主張し続けました。

 そんな中、拷問を受けていた義男の従者が、その苦痛に耐えかね「義男父子が放火をした」と自白しました。これによって伴親子は領地を没収され、流罪となりました。この事件を応天門の変といいます。

 

 しかし、この事件には解せない点があります。

 応天門は、平安遷都後に門名が漢風に改められました。かつては大伴門と呼ばれており、大伴氏が守る門でした。この大伴氏こそ、紛れもない伴氏の旧姓であり、大伴氏は平安初期に伴氏に改名していました。その伴氏がかつて管理していた門に火をつけるのは、考えにくい。

 そうなると、藤原氏の陰謀であるとみることが出来るが、真相は現在もわかっていません。

 ただ言えるのは、事件処理の背後には良房が動いており、この事件によって良房は正式に摂政となりました。

 これまで、わずか9歳で即位した清和天皇の代わりに政治を行っていた良房の「太政大臣」には、天皇の代わりに政治を行うという規定はなかった。しかし、この応天門の変のさなかにだされた勅命によって、良房の行っていた職務が正式に「摂政」として認められたことは事実です。

 そうなれば、良房がこの事件を上手く利用して実力者の伴氏を追放したという見方もあります。以後、良房は、臣下としははじめての藤原北家による政治体制の基礎を築いたのです。

以上。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

総図解よくわかる 古代史   瀧音能之=著  新人物往来社

聞くだけで一気にわかる 日本史 馬屋原吉博=著  アスコム

教科書よりやさしい 日本史   石川晶康=著     旺文社