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【薬子の変】平安初期の政治改革をわかりやすく【嵯峨天皇】

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【薬子の変】平安初期の政治改革をわかりやすく【嵯峨天皇】」というお話です。

 

 平安時代初期には桓武・平城・嵯峨天皇の3代にわたって、律令政治の再建のために、様々な改革が行われました。

 8世紀初頭に完成した律令制度は、8世紀末~9世紀の時代の変化とともに、必要に応じて律令には規定されていない官職(役人が担当する職務)が設置されました。これを令外官といいます。令外官には、勘解由使蔵人頭検非違使・摂政・関白などがあります。

今回は、それら令外官という職の紹介と、その途中に起きた薬子の変について見ていきたいと思います。

桓武天皇は、新都・平安京にて新しい政治が展開しました。具体的には律令制度の再建であり、国司の不正を取り締まる勘解由使の設置、徴兵制を廃止して精鋭部隊(健児)を組織したり、そして口分田の支給を確実に行わせるために班田収授法を改正しました。

 

 まず、地方政治の乱れを防ぐために勘解由使という職が置かれました。地方政治は国司という中央から任命された貴族が政治を行っていましたが、彼らの在任中の租税徴収や官有物の管理における不正を監督するために、新任国司から前任国司に対して与えられる文書である解由状の審査にあたりました。このような国司の交代のときに事務の引き継ぎを監督するのが勘解由使の職務でした。

 

 また、この時代の民衆の生活は重い労役や兵役、厳しい租税など大きな負担となっていました。そして戸籍には、兵役・労役・租税を負担する成年男子ではなく、女性の登録を増やす偽りの記載(疑籍)が増え、律令の制度は実態と合わなくなり、口分田も不足し、班田収授の実施が困難になりました。

 これらの問題に対処するために、桓武天皇は様々な改革に乗り出しました。

 まず、桓武天皇は徴兵制を廃止しました。当時の徴兵対象は農民でしたが、建前上の理由は農民の負担を軽減することでした。しかし、本音のところは農民たちの兵士としての質の低下が原因でした。

 そのうえで、桓武天皇は792年、東北・九州地方をのぞく全国の軍団と兵士を廃止し、郡司の子弟や有力農民からの志願からなる少数精鋭部隊(健児)をつくりました。

郡司の子供や弟子は、乗馬が上手く、武芸に長けている者が多かった。また、比較的時間に余裕があり、乗馬や武芸に励むことが出来る有力農民も徴兵の対象となりました。

 

 また、桓武天皇は、墾田永年私財法によって増える私有地を抑え、口分田を増やすために、班田収授法を改正しました。6年に1回だった口分田の支給を12年に1回にすることで、確実な班田収授を行わせました。

 また、公出挙の利息も利率5割から3割に減らし、雑徭の期間も年間60日から30日に半減しました。

 これによって、律令体制を維持しようとしました。しかし、効果はなく、9世紀には班田が30年、50年とおこなわれない地域が増えていきました。

桓武天皇の死後、息子の平城天皇、さらにその弟の嵯峨天皇が後を継ぎます。しかし、嵯峨天皇の時、天皇を辞めていた平城太政天皇が、藤原式家の仲成・薬子と結んで再び天皇となって都を平城京に戻そうとします(薬子の変)。この時、嵯峨天皇を守るために活躍したのが、蔵人頭に任命された、藤原北家藤原冬嗣でした。

 これらの桓武天皇の改革は、その皇子・平城天皇、そしてその弟・嵯峨天皇にも引き継がれました。

 806年に桓武天皇が亡くなると、その皇子・平城天皇が即位しました。しかし、3年後に平城天皇は病のため、809年に弟に皇位を譲り、嵯峨天皇として即位させ、自らは太上天皇となりました。

 

 ところが、この平城太上天皇嵯峨天皇の兄弟に対立が起こりました。

 平城太上天皇は寵愛していた藤原種継の娘・薬子や兄の仲成を引きつれて平城京へ移ってしまいました。

 藤原種継とは、宇合の孫で藤原式家の系統で、かつての桓武天皇の信頼も厚く、長岡京造営において工事指導者として活躍しました。薬子も仲成もそんな種継の子供達でした。

 これによって、平城大上天皇平城京と、嵯峨天皇平安京が対立し、朝廷がふたつあるかのような状況になってしまいました(二所朝廷)。

 実は、794年の桓武天皇平安京遷都以来、遷都に反対していた貴族が多く、平安京は正式な都としては不安的な地位にありました。

 これを利用した薬子と仲成は平城大上天皇を擁し、平城京へ再遷都することで自らの権力を確立し、平成大上天皇天皇に返り咲くことで利害関係が一致したのです。

 

 そして810年、太上天皇は平城遷都を命じ、これに大義として薬子と仲成は平安京勢力の打倒のために兵を挙げました。

 しかし、嵯峨天皇率いる平安京側が迅速に兵を展開して勝利し、大上天皇はみずから出家し、薬子は自殺、仲成はとらわれて処刑されました。これを薬子の変といいます。

こうして藤原4家(北家、式家、南家、京家)のうちの式家は潰えました。

 この薬子の変のとき、嵯峨天皇の側近として、その命令を速やかに太政官組織に伝え、天皇の秘書官長として活躍した人物がいました。それが藤原冬嗣でした。冬嗣は、藤原4子の中の房前の曾孫であり、藤原北家の系統です。

 この活躍によって嵯峨天皇の厚い信頼を得た冬嗣は、頭角を現すようになります。冬嗣は、嵯峨天皇が設置した蔵人所の長官(蔵人頭)に任命され、宮廷で重要な役割を果たすようになりました。冬嗣は、最終的に左大臣にまで昇格し、次の仁明天皇に娘・順子を嫁がせ、天皇家との結びつきを強めていきます。以後、藤原道長などに代表される藤原北家摂関政治が始まります。

 

 薬子の変を経て嵯峨天皇は、その権力を確立すると、平安京に新たな令外官として検非違使を設置しました。検非違使とは、平安京内の警察業務を行う組織で、後に裁判も担当するようになり、平安京内の治安維持を担う重要な職となっていきました。

 また、嵯峨天皇のもとでは、法制の整備も進められました。律令の中には、時代の変化にあわないものが出てきたため、実情に合わせて律令制度を強化することを目的に、律令を補ったり(格)、実施のさいの細則(式)を定めたりしました。

嵯峨天皇の頃には弘仁格式の編纂が行われ、後に貞観延喜格式も編纂されます。これらを合わせて三代格式といいます。

以上

 

参考文献

アナウンサーが読む 聞く教科書 山川詳説 日本史

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

読むだけですっきりわかる 日本史   後藤武士=著 宝島社

総図解 古代史          瀧音能之=著  新人物往来社