【奈良時代の権力闘争2】孝謙天皇と藤原仲麻呂(恵美押勝)
こんにちは。本宮貴大です。
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聖武天皇の後を継いだのは、孝謙天皇でした。それに加えて藤原仲麻呂が光明皇太后の信任を得て権力を充実させ、諸兄を失脚に追い込み、諸兄の子・橘奈良麻呂の変を経て、仲麻呂の権力が確立しました。
奈良時代半ばの朝廷は、どんなようすだったでしょう。
749年、聖武天皇から皇位を譲られて即位したのは、女性の孝謙天皇でした。譲位した聖武天皇は太上天皇になりました。
大納言の藤原仲麻呂は叔母(おば)の光明皇太后のためにつくられた役所である紫微中台の長官となり、朝廷を中心にたちました。仲麻呂は藤原4兄弟のひとりであった藤原武智麻呂の子です。叔母(おば)の光明皇太后に信頼されて、実権を握ったのです。
757年、聖武太上天皇が崩御すると、仲麻呂は、道祖王を素行が悪いという理由で辞めさせました。
かわって、皇太子になったのは、舎人親王の子で仲麻呂の養子の大井王でした。
同じ年、左大臣・橘諸兄の死後、その子である橘奈良麻呂が女性の天皇を認めず、天皇や仲麻呂を除こうと反乱を計画しますが、失敗します。
権力を確立した藤原仲麻呂は、自ら擁立した淳仁天皇のもとで全権を握り、名前も恵美押勝を賜り、政策を進めました。しかし、光明皇太后が亡くなると、仲麻呂は後ろ盾を失い、孝謙上皇と僧・道鏡と対立するようになりました。追いつめられた仲麻呂は上皇と道鏡を排斥しようと764年に兵をあげるも、敗れ去り、殺されてしました。(恵美押勝の乱)
翌758年、仲麻呂は大井王を担ぎ上げると、孝謙天皇に対して、大井王に皇位を譲るように圧力をかけました。孝謙天皇はこれに従い、大井王は淳仁天皇として即位しました。
こうして仲麻呂は、自ら擁立した淳仁天皇を傀儡として、自らは右大臣になりました。
そして、760年には朝廷の最高職の太政大臣になります。名前も恵美押勝という名を賜りました。
しかし、この年、仲麻呂が後ろ盾としていた光明皇太后が亡くなりました。
一方の孝謙上皇は、自らが病気になったとき、必死で看病をしてくれた河内国(大阪府東部)出身の道鏡という僧を信頼して、重用するようになっていました。
ここに、淳仁天皇・藤原仲麻呂と孝謙上皇・道鏡の対立構造が出来上がりました。
孝謙天皇の道鏡の重用ぶりに危惧を覚えた仲麻呂は、淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡を朝廷内から追放するように働きかけました。
「道鏡を寵愛し過ぎないように。彼は仏僧だぞ。朝廷内で権力を振るってもらっては困る。」
これに対し、孝謙上皇は大激怒し、淳仁天皇を無礼だと非難しました。
そのうえで孝謙天皇は天下に宣言しました。
「これからは国家の大事や賞罰はすべて、私が行おう。天皇は小事だけやっていればよい。」
これは孝謙天皇の事実上の政権奪取宣言でした。
朝廷の貴族たちは、仲麻呂の専横ぶりに不満をもち、その傀儡で皇統の中での傍系の淳仁天皇も蔑視していたので、孝謙天皇の宣言は支持されました。
こうして自分の意のままになる淳仁天皇が政治から遠ざけられたことで仲麻呂は焦りました。
そして、ついに764年、仲麻呂は起死回生を図ろうと兵を出しました。仲麻呂は朝鮮半島の新羅に出兵するという名目でひそかに兵を集め、反乱を起こし、孝謙上皇と道鏡の排斥を企てました。(恵美押勝の乱)
しかし、こうした仲麻呂の謀反の動きは、朝廷に筒抜けであり、孝謙上皇は先手を打って朝廷軍を差し向けました。
戦いは、朝廷軍が勝利し、仲麻呂は敗走しました。
仲麻呂自身はその場を逃れるも、結局は追いつめられ、琵琶湖西岸で殺されました。
こうして、恵美押勝の乱が鎮圧されると、淳仁天皇は退位させられ、孝謙天皇が再び即位(重祚)し、称徳天皇となりました。
その後、称徳天皇は、道鏡を側近として政治を行っていくのでした。
以上。