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【大仏造立】なぜ聖武天皇は遷都を繰り返したのか【聖武天皇】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【大仏造立】なぜ聖武天皇は遷都を繰り返したのか【聖武天皇】」というお話です。

是非、最後まで読んでいただきますようよろしくお願いします。

 

 さて、今回の主人公は聖武天皇です。聖武天皇といえば、奈良時代を代表する超重要人物として教科書に登場します。

 しかし、聖武天皇はその在位期間に様々な謎の行動に出ており、そのたびに周囲を騒がせていた天皇です。

 その在位期間は724年から749年の25年間ですが、この間、朝廷の権力者がコロコロ変わり、政情は非常に不安定なものでした。

 こうした社会動揺が続く中、聖武天皇はにわかに平城京を離れて東に向かい、その後、山背国(京都)の恭仁京、摂津(大阪)の難波京、近江(滋賀)の紫香楽宮と都を転々とさせ、結局は平城京に戻ります。この間、およそ4年半。このあいだに聖武天皇は4回も遷都を繰り返しているのです。

 なにゆえ、聖武天皇はこのような行動に出たのでしょうか。

 ということで、今回もストーリーを展開しながら、聖武天皇がなぜ遷都を繰り返したのかについて見ていこうと思います。

 

 700年、聖武天皇文武天皇を父とし、朝廷の重臣であった藤原不比等の娘・宮子を母として生まれ、幼名は首皇子といいました。

 奈良時代の初め(8世紀初頭)に政治権力の中枢を担っていたのは、藤原不比等でした。

 716年、16歳になった首皇子不比等の娘で同い年の光明子と結婚しました。

 つまり、聖武天皇は自分の祖父と義父が同一人物なのです。この背景には、やがて天皇となる首皇子に娘を嫁がせ、藤原氏の地位を確かなものにしようという不比等の思惑がうかがえた。

 

 そんな聖武天皇は724年、24歳で第45代天皇として即位しました。

 しかし、即位後まもなく不比等が亡くなり、その後の朝廷権力者は長屋王藤原4子不比等の子供達)、橘諸兄と、藤原氏一族と皇族一族が互いに政権を奪い合う不安定な政情であり、さらに疫病や飢饉も頻発しました。

 

 そんな中、聖武天皇が特に衝撃を受けたのは、740年に大宰府で起きた藤原広嗣の乱でした。

 既出の藤原4子には武智麻呂、房前、宇合、麻呂がおり、それぞれ南家、北家、式家、京家という家系を興しました。

 広嗣は藤原式家を興した宇合の子供でした。しかし、藤原4兄弟の病死により、朝廷の実権は橘諸兄と彼を補佐する吉備真備・玄昉へと移っていきました。広嗣は諸兄政権と対立するようになると、九州の大宰府に左遷されてしまいました。

 これに不満を持った広嗣は同740年8月、朝廷に上表文を出しました。

「政治が混乱し、世の中に災いが起こるのは、僧の玄昉や吉備真備が朝廷で我がもの顔に振る舞っているからです。彼らの追放を要求したします。」

しかし、広嗣はこの返事を待たずに挙兵しました。

 これに聖武天皇は激怒しました。

「広嗣は幼いころからの親友だ。彼はその頃から狂暴で、わたしが今までかばってきたのに、こういう振る舞いをするとは許せない」

 聖武天皇は九州に朝廷軍を送るよう命じ、その大軍はました。

 九州に陣を敷いた朝廷軍は広嗣軍に警告しました。

「広嗣は反逆者だ。朝廷軍に抵抗すれば罪は家族や親族におよぶぞ」

そう言われて、広嗣軍からは降伏する者が続出、戦わずして反乱軍は瓦解しました。結局、広嗣は捕らえられ処刑されました。

 

 この報告は同8月5日に平城京に届きましたが、聖武天皇はこの頃、都にいませんでした。何があったのか。

 広嗣の反乱がまだ終わらないときでした。聖武天皇は突如、平城京を離れ、伊勢を目指して行幸するという名目として東国を彷徨うという謎の行動に出ました。

「思うことがあって伊勢国奈良県)に向かう。行幸天皇が出かける)にふさわしい時世ではないがやむを得ない。」

 こう言いだした聖武天皇光明皇后、右大臣・橘諸兄藤原仲麻呂(武智麻呂の子)などを従えて、奈良の平城京から伊勢国を目指しました。

 ところが一行は伊勢神宮には向かわず、代わりに伊勢神宮に使者を送り、広嗣の乱の平定を祈らせました。

 聖武天皇は広嗣の乱が終わったという報告を受けた後も、平城京には戻らず、伊賀、伊勢を経て、美濃、近江と東国を彷徨い続けたのです。

 これには様々な憶測がありますが、最も有力視されているのは、このルートが聖武天皇が尊敬する曽祖父の天武天皇がかつて壬申の乱の際に廻ったルートと同じであったことから、聖武天皇は自らを天武天皇に重ね、藤原氏の横暴から脱却するために、天武天皇の行動を追体験したのではないかという考えです。伊勢神宮はかつての天武天皇がうやまった神社です。

 

 さて、聖武天皇率いる行幸は、最終的に山背国京都府木津川)に至り、聖武天皇は、ここを新都として恭仁京を造営することを決めました。

 この理由として山背国は、付近に木津川が流れており、物資の運搬や人々の交流には大変便利な場所だったからだとされています平城京は大河と接することがないため、水運には恵まれず、人口が10万にも膨れ上がったにも関わらず、水資源が確保できないというのは致命的な地理条件でした。

 こうして平城京から恭仁京への遷都を命じられた役人たちは、恭仁京に移り、平城京に帰ることは禁じられました。平城京大極殿など都としての機能も移され、市も移され、商人や庶民も移り住みました。

 

 さて、恭仁京を拠点とした聖武天皇は、一大国家プロジェクトを構想していました。大仏造立です。

 仏教の力によって混乱する世の中を平和にしたいと願っていた聖武天皇は、全世界を照らしてすべての人を救うという廬舎那仏の大仏をつくろうと考えていたのです。

 聖武天皇が大仏をつくろうと思ったきっかけは、かつて聖武天皇河内国の知識寺(大阪府柏原市)で本尊の廬舎那仏を見て、その光輝く姿をみて感動したことでした。また、この仏像は「知識」とよばれる人々によってつくられたことを知りますが、「知識」とは寺院や仏像をつくったり、社会事業を行うときに寄付金を差し出したり、労力を提供する人々のことです。

 聖武天皇は、そうした多くの人々が力を合わせてつくる廬舎那仏こそ、自らの理想とするものだと思いました。

 

 しかし、聖武天皇は大仏造立の前に、全国の役人たちに仏教の普及と重要性を説くため、「国分寺造立の詔」を出しました。741年のことでした。

しかし、全国の国分寺国分尼寺の造営には多額の費用を要しました。聖武天皇の妻・光明皇后は、その費用を捻出するために、自らの出身である藤原氏に働きかけ、5000戸を朝廷に返上させ、そこから得た税を全国の国分寺国分尼寺の建立費用としました。

しかし、国からの費用だけでは到底まかないきれず、地方の豪族から寄進(寄付)を募りました。その寄進の程度により、豪族たちは、より上位の位を授けられ、孫の代まで官職(郡司)を保証するなどとした政策がとられました。

こうして奈良時代の終わりごろまでにほぼ全国の国分寺が完成したとされています。

 

さて、741年に国分寺国分尼寺建立の詔を出した聖武天皇は、恭仁京にて「大仏造立の詔」を出すかと思いきや、大仏造立にふさわしい場所を探すようになりました。

都から遠くもなく、近くもない場所で、恭仁京平城京からも1日ほどで行ける場所を探していました。

そこで、743年、聖武天皇離宮(皇居以外の宮殿)としていた紫香楽こそ大仏造立にふさわしい地であると考えるようになり、紫香楽に宮殿の造営することを決断しました。

 

同743年、「大仏造立の詔」を出した聖武天皇は、大仏造立の場所を紫香楽の地で大仏づくりの場所を定めました。

そこへ行基という僧が弟子を率いてやってきました。行基はすでに恭仁京京都府木津川)づくりのとき、木津川に橋をかける工事に協力していました。

しかし、行基は朝廷に許可なく出家した私度僧で、勝手に道場(修行の寺)をつくったり、民衆に説法したり、人を集めて土木工事などの社会事業を行っていました。民衆に仏教を布教することは、僧尼令という法令によって禁止されていました。このため、行基は朝廷からにらまれていました。

 

しかし、民衆のために尽くす行基の評判は非常に高いもので、朝廷もこれを認めざるを得ませんでした。聖武天皇はそんな行基の活動を知り、行基に頼れば大勢の人々の助力によって大仏造立が出来ると考えました。

そして翌741年、聖武天皇行基の建てた寺に出向いて大仏づくりへの協力を頼み、行基もこれにこたえました。

聖武天皇は、行基を師と仰ぎ、敬いました。行基が人々に呼びかけると、大勢の人が大仏づくりに参加しました。

 

しかし、大仏造立が始まってから、まもなく聖武天皇恭仁京の造営を停止させました。その理由は建設に莫大な費用がかかるからでしたが、もはや当然のことでした。

恭仁京を造営しながら、紫香楽に宮殿を建設し、さらに大仏まで造立するという3大事業を同時進行させたからです。これではいくら国家財政といえども、成り立つわけがありません。

聖武天皇は、大仏づくりを近くで見たいということで、紫香楽の宮殿建設は継続させ、恭仁京の造営を停止させたのでした。

 

しかし、恭仁京の造営が停止されたのであれば、都の所在地はどうなるのでしょうか。

恭仁京にいた聖武天皇は、難波京大阪府)こそが都にふさわしいのではないかと考えるようになりました。

一応、聖武天皇は役人たちに質問したといわれています。

「恭仁と難波と、どちらが都にふさわしいか」

これに対する答えは、恭仁京が180名、難波京が153名でした。商人たちにも質問しましたが、その大半が恭仁京が良いと答えたそうです。

それでも、聖武天皇は結局、難波京へと向かいました。

しかし、そこで悲劇が起きました。

聖武天皇の皇子で皇太子候補であった安積(あさか)親王が脚の病にかかり、そのまま難波京で亡くなってしまったのです。

阿部内親王(後の孝謙天皇)から安積親王へと跡継ぎを考えていた聖武天皇の思いは潰えました。

これは難波京の祟りと考えた聖武天皇は、難波を都とする勅(天皇の命令)を出してからわずか40日後に、造営中の紫香楽へと向かいました。

744年、聖武天皇は紫香楽の甲賀寺で、廬舎那仏の骨中を立てる儀式に望み、みずから縄を引きました。

ところが、翌745年4月頃から紫香楽で、放火と思われる不自然な山火事がたびたび起こるようになりました。これは、恭仁京の造営、紫香楽宮の造営、大仏造立などを進める聖武天皇の政治に対して不満をいだき反対の勢力の仕業だったと考えられています。

これに追い打ちをかけるように紫香楽でたびたび地震が起こり、人々を不安な気持ちにさせました。

聖武天皇が念願の大仏づくりを紫香楽(滋賀県甲賀市)ではじめてから、数カ月のうちに山火事や地震がしばしば起こりました。山火事は不満をもつ人々の仕業であったと考えられます。地震は神仏の怒りと思えました。

聖武天皇は、再度役人たちに問いました。

「どこを都にしたらよいか」

これに対して、役人たちのほとんどが同じ答えをしました。

平城京を都にした方がよいでしょう」

したがって、聖武天皇は紫香楽での大仏造立を諦め、平城京奈良県)へ戻ることにしました。

この勅が出た後、人々は待ってましたと言わんばかりに平城京への道を急ぎました。

こうして、740年の藤原広嗣の乱以来、5年間にわたる聖武天皇行幸天皇が出かけること)は終わりを告げました。

 

平城京に戻った聖武天皇は、持病が悪化し、体調は非常に悪くなりました。

大仏造立は、平城京の北東に位置する外京で再開されました。

その場所は、大和国奈良県)の国分寺である東大寺があり、大仏はその本尊としてつくられました。

東大寺は後に、全国の国分寺国分尼寺の総本山となります。

大仏造立の工事は順調にすすみ、746年には土の原型が完成し、聖武天皇光明皇后とともに、大仏の供養を行いました。

大仏づくりは行基をはじめ、多くの人々が関わりました。

その人数は延べ260万人といいますから、当時の日本人の多くが何らかの形でこの事業に参加したことになります。

 

大仏づくりが行われるさなか、行基が亡くなりました。

大仏づくりに力をつくした行基の死は聖武天皇にとってショックでした。しかし、うれしい知らせもありました。

大仏の表面に塗る金が陸奥国から渡来人の技術者により採掘されたというのです。それまで、日本では金はとれないものと考えられてきましたので、聖武天皇は、これを「仏の恵み」だと喜びました。

749年、持病がさらに悪化した聖武天皇皇位を譲り、太上天皇になりました。皇太子の阿部内親王孝謙天皇として即位しました。

大仏づくりは孝謙天皇が引き継ぎ、藤原仲麻呂が中心となって事業をすすめました。

752年4月、大仏開眼供養会が行われました。聖武太上大臣、光明皇太后孝謙天皇が大仏のそばに座り、後に貴族や僧が並びました。

インドから招かれた開眼師が、大仏の目にひとみをいれた瞬間、大仏が完成しました。

大仏の完成は大仏造立の詔が出されてから9年の歳月を経て、大仏が完成したのでした。

「仏教が伝わって以来、最も盛大な儀式だった。」

聖武太上大臣は、このうえない感激を覚えたことでしょう。

 

今回は、聖武天皇がなぜ遷都を繰り返したのかについてみてきましたが、平城京から恭仁京に遷都したのは、恵まれた水運と水資源の確保が目的でした。しかし、費用の問題から恭仁京の造営を断念した後に、難波京に遷都した理由は未だにわかっていません。そればかりか大仏造立を近くで見たいという理由だけで、早々と紫香楽に遷都してしまいます。

これを聖武天皇の乱心とする見方もありますが、逆に明晰であったがゆえの行動であったとする意見もあります。

それは、最初に遷都した恭仁京と、後に遷都した紫香楽宮が、木津川など複数の支流でつながっていたことに注目。つまり両都を水運でつなぐ軍事拠点とし、東国から兵を集めて藤原氏に対抗しようという構想があったというのです。もしそうであれば、聖武天皇の伊勢行幸は、東国の情勢をさぐるためであったと考えることも出来ます。

しかし、いずれにしても、度重なる遷都によって嫌気がさした官人、さらに民衆からの不満も多く、山火事などのさらなる治安悪化を招いたことは事実です。

これを危惧した聖武天皇は結局、もとの平城京に都を戻すとともに巨大な大仏を完成させることで、人々の不安を仏の慈悲にすがって解消しようとしたのでした。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

歴史がわかる! 100人日本史   河合敦=著 光文社

日本の歴史1 旧石器~平安時代   ポプラ社

地形と地理で読み解く 古代史    洋泉社MOOK