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【遣唐使】鑑真の日本における知られざる功績とは。【鑑真】

こんにちは。本宮 貴大です。

遣唐使】鑑真の日本における知られざる功績とは?

 

 鑑真といえば、唐の高僧で、度重なる日本への渡航失敗によって失明したにも関わらず、それでも諦めずに渡航を試みて、遂に来日した鑑真は、仏教の戒律を伝え、日本に律宗を開いた名僧です。

 しかし、鑑真の日本での功績は実は仏教だけに限りません。彼は、日本に実に様々な知識や技術を伝えてくれました。

 ということで今回は、鑑真の人生をストーリーとして、彼の功績について見ていこうと思います。

 

 688年、鑑真は唐の揚州(ヤンチョウ)に生まれました。14歳のとき、大雲寺という仏を見て感動し、出家を決意。18歳になると、戒律(正式な僧として認められる資格)を授けられました。

 戒律とは、仏教を信仰する者が守るべく規則のことで、仏教界では、新たに僧となる者は、戒律を遵守することを誓わなければなりません。

 戒律のうち、「戒」とは、自分で自分に誓いを立てる道徳的な心構えをいい、「律」とは、僧として守るべき規則のことをいいます。例えば、出家していない一般の信者であれば、「菩薩戒」が示され、「殺さない、盗まない、みだらなことをしない、嘘をつかない、酒を飲まない」という5つの戒が示されました。

 それに対して、出家した修行僧にはさらに数百の戒律を守ることが決められました。

 鑑真は出家した僧なので、数百の戒律を守ることが決められていました。

 

 その後、鑑真は唐の都・長安などで仏教を学び、26歳で揚州に帰り、戒律を講義し、多くの寺を建て、仏像をつくりました。

 

 そして、742年、鑑真が45歳のときでした。日本から第11回目となる遣唐使節団が唐へ渡ってきました。その中の若い留学僧が、揚州(ヤンチョウ)の大明寺を訪れた際、鑑真ら高僧たちに願い出ました。

「現在の日本には戒律を授けることが出来る僧がいません。どうか日本に受戒を授けることの出来る高僧の派遣をお願い出来ないでしょうか。」

 戒律を授かるには、受戒と呼ばれる儀式を行う必要がありますが、その戒律を授けることが出来る資格を持った高僧は非常に少数でした。

 日本では、受戒の重要性を長らく認識していませんでしたが、奈良時代に入ると、戒律の重要性を認識し始め、受戒の制度を整備する必要性が高まっていたのです。

唐には、戒律を授ける資格を持った僧がたくさんいました。

そこで、日本は鑑真ら高僧をお招きしようとしたのです。

 

 ですが、もちろん鑑真は唐の偉い仏僧であるため、留学僧らは鑑真の弟子たちの派遣をお願いしました。

 しかし、弟子たちは尻込みして行きたがらない。

それもそのはず、日本への渡航は危険が伴います。当時、日本は新羅との関係が悪化しており、朝鮮半島西岸にそって陸地を見ながら進むことが出来る安全な北路が通れなくなり、東シナ海を横断する危険な南東路や、沖縄などの南の島々を経由して行く南路を使うしかありませんでした。しかし、レーダーもないこの時代に、陸が見えない渡航は、とても危険なことでした。

 それに、当時の唐は世界有数の文明国です。それに対して日本は、唐の真似はしているものの、まだまだ発展途上で、海の向こうの田舎の島国です。わざわざ命の危険を冒して行こうとは思えないのが正直なところだったのでしょう。

 そんな尻込みする弟子たちを見かねた鑑真は自らが日本に向かうと言いました。

「仏法の尊い教えを伝えるためなら、命など惜しくはありません。」

 師匠の鑑真が向かうとあれば、弟子達も放っておくわけにはいきません。そこで弟子達も思い直して鑑真とともに日本に向かうことを決意しました。

 

しかし、鑑真たちの日本渡航は苦難の連続でした。

4年間のあいだに5度の渡航を試みるも失敗が続きました。

鑑真を日本に行かせたくない弟子の1人が密告したことで渡航が頓挫してしまったこと・・・・。

途中で遭難して唐に引き返してしまったこと・・・。

暴風雨にあって別の島に漂着してしまったこと・・・。

相次ぐ渡航の失敗で鑑真を信じてついてきた何人かの弟子達が死んでしまったこと・・・。

こうした苦労のためか、とうとう鑑真は失明してしまいました。

 

しかし、鑑真の日本渡航の決意は変わりませんでした。

753年、彼の才能を惜しんだ唐の皇帝が鑑真の渡航を中止させようとしたのを振り切り、日本へ帰国する遣唐使船にこっそり乗り込み、ついに10年の月日を経て日本に渡ることが出来ました。6度目の渡航でした。

 

翌754年、鑑真は平城京に招かれました。

鑑真を迎え入れた聖武天皇(この時は太上天皇)は言いました。

「我が東大寺に受戒堂を設置して得度受戒をしたいと昼夜を問わず、強く願っておりました。しかし、失明した其方(そなた)の苦しみは、筆舌に尽くしがたい・・・・。相応の待遇を与えましょう。」

朝廷は鑑真の来日を盛大に歓迎しました。

 

 鑑真は、東大寺の大仏殿前に戒律を授ける場を設け(東大寺戒壇院)、そこで、聖武太上天皇光明皇太后孝謙天皇に戒律を授けました。3人は三宝(仏教、経典、仏僧)を敬うことを誓いました。

 その後、朝廷の厚い保護を受けた鑑真は合計400人以上の僧侶に正式な受戒を行い、東大寺律宗を伝え、経典、仏像、仏具など作らせるなど仏教関連において大変な功績を残しました。

 

 しかし、鑑真の日本での功績は、仏教関連だけではありませんでした。例えば、唐の新しい彫刻技術や建築技術、美術や工芸技術、さらに医学知識までも持っていた鑑真は薬の調合も出来ました。

続日本紀』によれば、聖武太上天皇光明皇太后が病に倒れた時、薬を調合して差し出し、病気を治してしまったというエピソードが記されています。

そして758年、こうした様々な功績から鑑真は、朝廷から大都僧(仏教界の最上位)の地位を賜り、かつての天武天皇の邸宅も譲り受けました。

翌759年には、鑑真は律宗の総本山として唐招提寺を創建しました。そこで、多くの弟子たちを持ち、仏教はもちろん、医学や薬学の知識も教え、さらには美術や工芸技術の普及にもつとめました。

 

 そんな鑑真は唐招提寺の宿坊で、西向きに座った状態で77歳の生涯を閉じました。

 しかし、彼の遺体は死後3日経っても、身体の体温が失われなかったそうです。そのためにしばらくは死体を葬ることが出来なかったそうです。

 さらには、亡骸を火葬した際、周囲一帯に不思議と芳香が漂ったとされています。

 

 そして、彼の死を惜しんだ弟子の1人は、鑑真の彫刻の像を造りました。現在、その彫像は日本初の本格的な肖像彫刻として国宝に指定され、唐招提寺の御影堂に安置されています。

 このように非常に高い徳と知識を持った鑑真の来日は、その後の日本文化の発展に大きな功績を残したのでした。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり  日本史       河合敦=著  日本実業出版社

読むだけですっきりわかる 日本史  後藤武=著  宝島社

日本の歴史1 旧石器~平安時代   ポプラ社